》らかな白いものが、だんだん拡《ひろ》がって恐ろしい大きな箱になったりするのでございました。母さまはその額《ひたい》が余り熱いといって心配《しんぱい》なさいました。須利耶さまは写《うつ》しかけの経文《きょうもん》に、掌《て》を合せて立ちあがられ、それから童子さまを立たせて、紅革《べにがわ》の帯を結《むす》んでやり表へ連れてお出になりました。駅《えき》のどの家ももう戸を閉《し》めてしまって、一面《いちめん》の星の下に、棟々《むねむね》が黒く列《なら》びました。その時童子はふと水の流れる音を聞かれました。そしてしばらく考えてから、
(お父さん、水は夜でも流れるのですか。)とお尋《たず》ねです。須利耶さまは沙漠の向うから昇って来た大きな青い星を眺めながらお答えなされます。
(水は夜でも流れるよ。水は夜でも昼でも、平《たい》らな所でさえなかったら、いつまでもいつまでも流れるのだ。)
 童子の脳は急《きゅう》にすっかり静《しず》まって、そして今度は早く母さまの処にお帰りなりとうなりまする。
(お父さん。もう帰ろうよ。)と申されながら須利耶さまの袂《たもと》を引っ張《ぱ》りなさいます。お二人は家に入り、母さまが迎《むか》えなされて戸の環を嵌《は》めておられますうちに、童子はいつかご自分の床に登って、着換えもせずにぐっすり眠ってしまわれました。
 また次のようなことも申します。
 ある日須利耶さまは童子と食卓《しょくたく》にお座《すわ》りなさいました。食品の中に、蜜《みつ》で煮《に》た二つの鮒《ふな》がございました。須利耶の奥さまは、一つを須利耶さまの前に置かれ、一つを童子にお与《あた》えなされました。
(喰《た》べたくないよおっかさん。)童子が申されました。(おいしいのだよ。どれ、箸《はし》をお貸《か》し。)
 須利耶の奥さまは童子の箸をとって、魚を小さく砕《くだ》きながら、(さあおあがり、おいしいよ。)と勧《すす》められます。童子は母さまの魚を砕く間、じっとその横顔を見ていられましたが、俄かに胸が変な工合《ぐあい》に迫《せま》ってきて気の毒《どく》なような悲しいような何とも堪《たま》らなくなりました。くるっと立って鉄砲玉《てっぽうだま》のように外へ走って出られました。そしてまっ白な雲の一杯に充《み》ちた空に向って、大きな声で泣き出しました。まあどうしたのでしょう、と須利耶の奥さまが愕ろかれます。どうしたのだろう行ってみろ、と須利耶さまも気づかわれます。そこで須利耶の奥さまは戸口にお立ちになりましたら童子はもう泣きやんで笑っていられましたとそんなことも申し伝《つた》えます。
 またある時、須利耶さまは童子をつれて、馬市《うまいち》の中を通られましたら、一疋の仔馬《こうま》が乳《ちち》を呑《の》んでおったと申します。黒い粗布《あらぬの》を着た馬商人《うましょうにん》が来て、仔馬を引きはなしもう一疋の仔馬に結びつけ、そして黙《だま》ってそれを引いて行こうと致《いた》しまする。母親の馬はびっくりして高く鳴きました。なれども仔馬はぐんぐん連れて行かれまする。向うの角《かど》を曲《まが》ろうとして、仔馬は急《いそ》いで後肢《あとあし》を一方あげて、腹《はら》の蝿《はえ》を叩《たた》きました。
 童子は母馬の茶いろな瞳を、ちらっと横眼《よこめ》で見られましたが、俄かに須利耶さまにすがりついて泣き出されました。けれども須利耶さまはお叱《しか》りなさいませんでした。ご自分の袖《そで》で童子の頭をつつむようにして、馬市を通りすぎてから河岸《かわぎし》の青い草の上に童子を座《すわ》らせて杏《あんず》の実《み》を出しておやりになりながら、しずかにおたずねなさいました。
(お前はさっきどうして泣いたの。)
(だってお父さん。みんなが仔馬をむりに連れて行くんだもの。)
(馬は仕方《しかた》ない。もう大きくなったからこれから独《ひと》りで働《はた》らくんだ。)
(あの馬はまだ乳を呑んでいたよ。)
(それはそばに置いてはいつまでも甘《あま》えるから仕方ない。)
(だってお父さん。みんながあのお母さんの馬にも子供の馬にもあとで荷物を一杯つけてひどい山を連れて行くんだ。それから食べ物がなくなると殺《ころ》して食べてしまうんだろう。)
 須利耶さまは何気《なにげ》ないふうで、そんな成人《おとな》のようなことを云うもんじゃないとは仰っしゃいましたが、本統《ほんとう》は少しその天の子供が恐《おそ》ろしくもお思いでしたと、まあそう申し伝えます。
 須利耶さまは童子を十二のとき、少し離《はな》れた首都《しゅと》のある外道《げどう》[※4]の塾《じゅく》にお入れなさいました。
 童子の母さまは、一生けん命機を織って、塾料《じゅくりょう》や小遣《こづか》いやらを拵《こし》らえてお送りなさいました。
 冬が近くて、天山[※5]はもうまっ白になり、桑《くわ》の葉《は》が黄いろに枯《か》れてカサカサ落ちました頃《ころ》、ある日のこと、童子が俄かに帰っておいでです。母さまが窓《まど》から目敏《めざと》く見付けて出て行かれました。
 須利耶さまは知らないふりで写経を続けておいてです。
(まあお前は今ごろどうしたのです。)
(私、もうお母さんと一緒《いっしょ》に働《はた》らこうと思います。勉強《べんきょう》している暇《ひま》はないんです。)
 母さまは、須利耶さまのほうに気兼《きが》ねしながら申されました。
(お前はまたそんなおとなのようなことを云って、仕方《しかた》ないではありませんか。早く帰って勉強して、立派になって、みんなの為《ため》にならないとなりません。)
(だっておっかさん。おっかさんの手はそんなにガサガサしているのでしょう。それだのに私の手はこんななんでしょう。)
(そんなことをお前が云わなくてもいいのです。誰《だれ》でも年を老《と》れば手は荒《あ》れます。そんなことより、早く帰って勉強をなさい。お前の立派になることばかり私には楽《たのし》みなんだから。お父さんがお聞きになると叱られますよ。ね。さあ、おいで。)と斯う申されます。
 童子はしょんぼり庭から出られました。それでも、また立ち停《どま》ってしまわれましたので、母さまも出て行かれてもっと向うまでお連れになりました。そこは沼地《ぬまち》でございました。母さまは戻《もど》ろうとしてまた(さあ、おいで早く。)と仰っしゃったのでしたが童子はやっぱり停《と》まったまま、家の方をぼんやり見ておられますので、母さまも仕方なくまた振《ふ》り返《かえ》って、蘆《あし》を一本|抜《ぬ》いて小さな笛《ふえ》をつくり、それをお持たせになりました。
 童子はやっと歩き出されました。そして、遥《はる》かに冷《つめ》たい縞《しま》をつくる雲のこちらに、蘆がそよいで、やがて童子の姿が、小さく小さくなってしまわれました。俄かに空を羽音がして、雁の一列が通りました時、須利耶さまは窓からそれを見て、思わずどきっとなされました。
 そうして冬に入りましたのでございます。その厳《きび》しい冬が過ぎますと、まず楊の芽《め》が温和《おとな》しく光り、沙漠には砂糖水《さとうみず》のような陽炎《かげろう》が徘徊《はいかい》いたしまする。杏やすももの白い花が咲《さ》き、次《つい》では木立《こだち》も草地もまっ青《さお》になり、もはや玉髄《ぎょくずい》の雲の峯《みね》が、四方の空を繞《めぐ》る頃《ころ》となりました。
 ちょうどそのころ沙車の町はずれの砂《すな》の中から、古い沙車大寺のあとが掘《ほ》り出されたとのことでございました。一つの壁《かべ》がまだそのままで見附けられ、そこには三人の天童子が描《えが》かれ、ことにその一人はまるで生きたようだとみんなが評判《ひょうばん》しましたそうです。或るよく晴れた日、須利耶さまは都に出られ、童子の師匠《ししょう》を訪ねて色々|礼《れい》を述《の》べ、また三巻《みまき》の粗布を贈り、それから半日、童子を連れて歩きたいと申されました。
 お二人は雑沓《ざっとう》の通りを過ぎて行かれました。
 須利耶さまが歩きながら、何気《なにげ》なく云われますには、
(どうだ、今日の空の碧《あお》いことは、お前がたの年は、丁度《ちょうど》今あのそらへ飛びあがろうとして羽をばたばた云わせているようなものだ。)
 童子が大へんに沈《しず》んで答えられました。
(お父さん。私はお父さんとはなれてどこへも行きたくありません。)
 須利耶さまはお笑いになりました。
(勿論《もちろん》だ。この人の大きな旅《たび》では、自分だけひとり遠い光の空へ飛び去《さ》ることはいけないのだ。)
(いいえ、お父さん。私はどこへも行きたくありません。そして誰もどこへも行かないでいいのでしょうか。)とこう云う不思議《ふしぎ》なお尋ねでございます。
(誰もどこへも行かないでいいかってどう云うことだ。)
(誰もね、ひとりで離《はな》れてどこへも行かないでいいのでしょうか。)
(うん。それは行かないでいいだろう。)と須利耶さまは何の気もなくぼんやりと斯うお答えでした。
 そしてお二人は町の広場を通り抜けて、だんだん郊外《こうがい》に来られました。沙《すな》がずうっとひろがっておりました。その砂《すな》が一ところ深《ふか》く掘られて、沢山《たくさん》の人がその中に立ってございました。お二人も下りて行かれたのです。そこに古い一つの壁がありました。色はあせてはいましたが、三人の天の童子たちがかいてございました。須利耶さまは思わずどきっとなりました。何か大きい重《おも》いものが、遠くの空からばったりかぶさったように思われましたのです。それでも何気なく申されますには、
(なるほど立派なもんだ。あまりよく出来てなんだか恐《こわ》いようだ。この天童《てんどう》はどこかお前に肖《に》ているよ。)
 須利耶さまは童子をふりかえりました。そしたら童子はなんだかわらったまま、倒れかかっていられました。須利耶さまは愕ろいて急いで抱《だ》き留《と》められました。童子はお父さんの腕の中で夢《ゆめ》のようにつぶやかれました。
(おじいさんがお迎《むか》いをよこしたのです。)
 須利耶さまは急いで叫ばれました。
(お前どうしたのだ。どこへも行ってはいけないよ。)
 童子が微《かす》かに云われました。
(お父さん。お許《ゆる》し下さい。私はあなたの子です。この壁は前にお父さんが書いたのです。そのとき私は王の……だったのですがこの絵ができてから王さまは殺されわたくしどもはいっしょに出家《しゅっけ》したのでしたが敵王《てきおう》がきて寺を焼《や》くとき二日ほど俗服《ぞくふく》を着てかくれているうちわたくしは恋人《こいびと》があってこのまま出家にかえるのをやめようかと思ったのです。)
 人々が集《あつま》って口々に叫びました。
(雁の童子だ。雁の童子だ。)
 童子はも一度、少し唇《くちびる》をうごかして、何かつぶやいたようでございましたが、須利耶さまはもうそれをお聞きとりなさらなかったと申します。
 私の知っておりますのはただこれだけでございます。」
 老人はもう行かなければならないようでした。私はほんとうに名残《なご》り惜《お》しく思い、まっすぐに立って合掌《がっしょう》して申しました。
「尊《とうと》いお物語《ものがたり》をありがとうございました。まことにお互《たが》い、ちょっと沙漠のへりの泉で、お眼にかかって、ただ一時を、一緒《いっしょ》に過ごしただけではございますが、これもかりそめのことではないと存《ぞん》じます。ほんの通りがかりの二人の旅人《たびびと》とは見えますが、実はお互がどんなものかもよくわからないのでございます。いずれはもろともに、善逝《スガタ》[※6]の示《しめ》された光の道を進み、かの無上菩提《むじょうぼだい》[※7]に至《いた》ることでございます。それではお別れいたします。さようなら。」
 老人は、黙って礼を返しました。何か云いたいようでしたが黙って俄かに向うを向き、今まで私の来た方の荒地《あ
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング