蛙のゴム靴
宮沢賢治

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)楢《なら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|疋《びき》
−−

 松の木や楢《なら》の木の林の下を、深い堰《せき》が流れて居《を》りました。岸には茨《いばら》やつゆ草やたでが一杯にしげり、そのつゆくさの十本ばかり集った下のあたりに、カン蛙《がへる》のうちがありました。
 それから、林の中の楢の木の下に、ブン蛙のうちがありました。
 林の向ふのすゝきのかげには、ベン蛙のうちがありました。
 三|疋《びき》は年も同じなら大きさも大てい同じ、どれも負けず劣らず生意気で、いたづらものでした。
 ある夏の暮れ方、カン蛙ブン蛙ベン蛙の三疋は、カン蛙の家の前のつめくさの広場に座って、雲見といふことをやって居りました。一体蛙どもは、みんな、夏の雲の峯を見ることが大すきです。じっさいあのまっしろなプクプクした、玉髄《ぎょくずゐ》のやうな、玉あられのやうな、又|蛋白石《たんぱくせき》を刻んでこさへた葡萄《ぶだう》の置物のやうな雲の峯は、誰《たれ》の目にも立派に見えますが、蛙どもには殊にそれが見事なのです。眺《なが》めても眺めても厭《あ》きないのです。そのわけは、雲のみねといふものは、どこか蛙の頭の形に肖《に》てゐますし、それから春の蛙の卵に似てゐます。それで日本人ならば、丁度花見とか月見とかいふ処《ところ》を、蛙どもは雲見をやります。
「どうも実に立派だね。だんだんペネタ形になるね。」
「うん。うすい金色だね。永遠の生命を思はせるね。」
「実に僕たちの理想だね。」
 雲のみねはだんだんペネタ形になって参りました。ペネタ形といふのは、蛙どもでは大へん高尚《かうしゃう》なものになってゐます。平たいことなのです。雲の峰はだんだん崩れてあたりはよほどうすくらくなりました。
「この頃《ごろ》、ヘロンの方ではゴム靴《ぐつ》がはやるね。」ヘロンといふのは蛙語です。人間といふことです。
「うん。よくみんなはいてるやうだね。」
「僕たちもほしいもんだな。」
「全くほしいよ。あいつをはいてなら粟《くり》のいがでも何でもこはくないぜ。」
「ほしいもんだなあ。」
「手に入れる工夫はないだらうか。」
「ないわけでもないだらう。たゞ僕たちのはヘロンのとは大きさも型も大分ちがふから拵《こしら》へ直さないと駄目《だめ》だな。」
「うん。それはさうさ。」
 さて雲のみねは全くくづれ、あたりは藍《あゐ》色になりました。そこでベン蛙とブン蛙とは、
「さよならね。」と云《い》ってカン蛙とわかれ、林の下の堰を勇ましく泳いで自分のうちに帰って行きました。

          ※

 あとでカン蛙《がへる》は腕を組んで考へました。桔梗《ききゃう》色の夕暗《ゆふやみ》の中です。
 しばらくしばらくたってからやっと「ギッギッ」と二声ばかり鳴きました。そして草原をペタペタ歩いて畑にやって参りました、
 それから声をうんと細くして、
「野鼠《のねずみ》さん、野鼠さん。まうし、まうし。」と呼びました。
「ツン。」と野鼠は返事をして、ひょこりと蛙の前に出て来ました。そのうすぐろい顔も、もう見えないくらゐ暗いのです。
「野鼠さん。今晩は。一つお前さんに頼みがあるんだが、きいて呉《く》れないかね。」
「いや、それはきいてあげよう。去年の秋、僕が蕎麦団子《そばだんご》を食べて、チブスになって、ひどいわづらひをしたときに、あれほど親身の介抱を受けながら、その恩を何でわすれてしまふもんかね。」
「さうか。そんなら一つお前さん、ゴム靴《ぐつ》を一足工夫して呉れないか。形はどうでもいいんだよ。僕がこしらへ直すから。」
「あゝ、いゝとも。明日の晩までにはきっと持って来てあげよう。」
「さうか。それはどうもありがたう。ではお願ひするよ。さよならね。」
 カン蛙は大よろこびで自分のおうちへ帰って寝てしまひました。

          ※

 次の晩方です。
 カン蛙は又畑に来て、
「野鼠さん。野鼠さん。まうし。まうし。」とやさしい声で呼びました。
 野鼠はいかにも疲れたらしく、目をとろんとして、はぁあとため息をついて、それに何だか大へん憤《おこ》って出て来ましたが、いきなり小さなゴム靴をカン蛙の前に投げ出しました。
「そら、カン蛙さん。取ってお呉れ。ひどい難儀をしたよ。大へんな手数をしたよ。命がけで心配したよ。僕はお前のご恩はこれで払ったよ。少し払ひ過ぎた位かしらん。」と云ひながら、野鼠はぷいっと行ってしまったのでした。
 カン蛙は、野鼠の激昂《げきかう》のあんまりひどいのに、しばらくは呆《あき》れてゐましたが、なるほど考へて見ると、それも無理はありませんでした。まづ野鼠は、たゞの鼠にゴム靴をたのむ、たゞの鼠は猫《ねこ》にたのむ、猫は犬にたのむ、犬は馬にたのむ、馬は自分の金沓《かなぐつ》を貰《もら》ふとき、何とかかんとかごまかして、ゴム靴をもう一足受け取る、それから、馬がそれを犬に渡す、犬が猫に渡す、猫がたゞの鼠に渡す、たゞの鼠が野鼠に渡す、その渡しやうもいづれあとでお礼をよこせとか何とか、気味の悪い語《ことば》がついてゐたのでせう、そのほか馬はあとでゴム靴をごまかしたことがわかったら、人間からよほどひどい目にあはされるのでせう。それ全体を野鼠《のねずみ》が心配して考へるのですから、とても命にさはるほどつらい訳です。けれどもカン蛙《がへる》は、その立派なゴム靴《ぐつ》を見ては、もう嬉《うれ》しくて嬉しくて、口がむずむず云ふのでした。
 早速それを叩《たた》いたり引っぱったりして、丁度自分の足に合ふやうにこしらへ直し、にたにた笑ひながら足にはめ、その晩一ばん中歩きまはり、暁方《あけがた》になってから、ぐったり疲れて自分の家に帰りました。そして睡《ねむ》りました。

          ※

「カン君、カン君、もう雲見の時間だよ。おいおい。カン君。」カン蛙は眼《め》をあけました。見るとブン蛙とベン蛙とがしきりに自分のからだをゆすぶってゐます。なるほど、東にはうすい黄金《きん》色の雲の峯が美しく聳《そび》えてゐます。
「や、君はもうゴム靴をはいてるね。どこから出したんだ。」
「いや、これはひどい難儀をして大へんな手数をしてそれから命がけほど頭を痛くして取って来たんだ。君たちにはとても持てまいよ。歩いて見せようか。そら、いゝ工合《ぐあひ》だらう。僕がこいつをはいてすっすっと歩いたらまるで芝居のやうだらう。まるでカーイのやうだらう、イーのやうだらう。」
「うん、実にいゝね。僕たちもほしいよ。けれど仕方ないなあ。」
「仕方ないよ。」
 雲の峯は銀色で、今が一番高い所です。けれどもベン蛙とブン蛙とは、雲なんかは見ないでゴム靴ばかり見てゐるのでした。
 そのとき向ふの方から、一疋の美しいかへるの娘がはねて来てつゆくさの向ふからはづかしさうに顔を出しました。
「ルラさん、今晩は。何のご用ですか。」
「お父さんが、おむこさんを探して来いって。」娘の蛙は顔を少し平ったくしました。
「僕なんかはどうかなあ。」ベン蛙が云ひました。
「あるいは僕なんかもいゝかもしれないな。」ブン蛙が云ひました。
 ところがカン蛙は一言も物を云はずに、すっすっとそこらを歩いてゐたばかりです。
「あら、あたしもうきめたわ。」
「誰《たれ》にさ?」二疋は眼をぱちぱちさせました。
 カン蛙はまだすっすっと歩いてゐます。
「あの方だわ。」娘の蛙は左手で顔をかくして右手の指をひろげてカン蛙を指しました。
「おいカン君、お嬢さんがきみにきめたとさ。」
「何をさ?」
 カン蛙《がへる》はけろんとした顔つきをしてこっちを向きました。
「お嬢さんがおまへさんを連れて行くとさ。」
 カン蛙は急いでこっちへ来ました。
「お嬢さん今晩は、僕に何か用があるんですか。なるほど、さうですか。よろしい。承知しました。それで日はいつにしませう。式の日は。」
「八月二日がいゝわ。」
「それがいゝです。」カン蛙はすまして空を向きました。
 そこでは雲の峯がいままたペネタ型になって流れてゐます。
「そんならあたしうちへ帰ってみんなにさう云ふわ。」
「えゝ、」
「さよなら」
「さよならね。」
 ベン蛙とブン蛙はぶりぶり怒って、いきなりくるりとうしろを向いて帰ってしまひました。しゃくにさはったまぎれに、あの林の下の堰《せき》を、たゞ二足にちぇっちぇっと泳いだのでした。そのあとでカン蛙のよろこびやうと云ったらもうとてもありません。あちこちあるいてあるいて、東から二十日の月が登るころやっとうちに帰って寝ました。

          ※

 さてルラ蛙の方でも、いろいろ仕度をしたりカン蛙と談判をしたり、だんだん事がまとまりました。いよいよあさってが結婚式といふ日の明方、カン蛙は夢の中で、
「今日は僕はどうしてもみんなの所を歩いて明後日《あさって》の式に招待して来ないといけないな。」と云ひました。ところがその夜明方から朝にかけて、いよいよ雨が降りはじめました。林はガアガアと鳴り、カン蛙のうちの前のつめくさは、うす濁った水をかぶってぼんやりとかすんで見えました。それでもカン蛙は勇んで家を出ました。せきの水は濁って大へんに増し、幾本もの蓼《たで》やつゆくさは、すっかり水の中になりました、飛び込むのは一寸《ちょっと》こはいくらゐです。カン蛙は、けれども一本のたでから、ピチャンと水に飛び込んで、ツイツイツイツイ泳ぎました。泳ぎながらどんどん流されました。それでもとにかく向ふの岸にのぼりました。
 それから苔《こけ》の上をずんずん通り、幾本もの虫のあるく道を横切って、大粒の雨にうたれゴム靴《ぐつ》をピチャピチャ云はせながら、楢《なら》の木の下のブン蛙のおうちに来て高く叫びました。
「今日は、今日は。」
「どなたですか。あゝ君か。はひり給《たま》へ。」
「うん、どうもひどい雨だね。パッセン大街道も今日はいきものの影さへないぞ。」
「さうか。ずゐぶんひどい雨だ。」
「ところで君も知ってる通り、明後日《あさって》は僕の結婚式なんだ。どうか来て呉れ給へ。」
「うん。さうさう。さう云へばあの時あのちっぽけな赤い虫が何かそんなこと云ってゐたやうだったね。行かう。」
「ありがたう。どうか頼むよ。それではさよならね。」
「さよならね。」
 カン蛙《がへる》は又ピチャピチャ林の中を通ってすゝきの中のベン蛙のうちにやって参りました。
「今日は、今日は。」
「どなたですか。あゝ君か。はひれ。」
「ありがたう。どうもひどい雨だ。パッセン大街道も今日はしんとしてるよ。」
「さうか。ずゐぶんひどいね。」
「ところで君も知ってるだらうが明後日僕の結婚式なんだ。どうか来て呉れ給へ。」
「あゝ、そんなことどこかで聞いたっけねい。行かう。」
「どうか。ではさよならね。」
「さよならね。」そしてカン蛙は又ピチャピチャ林の中を歩き、プイプイ堰《せき》を泳いで、おうちに帰ってやっと安心しました。

          ※

 丁度そのころブン蛙はベン蛙のところへやって来たのでした。
「今日は、今日は。」
「はい。やあ、君か。はひれ。」
「カンが来たらう。」
「うん。いまいましいね。」
「全くだ。畜生。何とかひどい目にあはしてやりたいね。」
「僕がうまいこと考へたよ。明日の朝ね、雨がはれたら結婚式の前に一寸《ちょっと》散歩しようと云ってあいつを引っぱり出して、あそこの萱《かや》の刈跡をあるくんだよ。僕らも少しは痛いだらうがまあ我慢してさ。するとあいつのゴム靴《ぐつ》がめちゃめちゃになるだらう。」
「うん。それはいゝね。しかし僕はまだそれ位ぢゃ腹が癒《い》えないよ。結婚式がすんだらあいつらを引っぱり出して、あの畑の麦をほした杭《くひ》の穴に落してやりたいね。上に何か木の葉でもかぶせて置かう。それは僕がやって置くよ。面白いよ。」
「それもいゝね。ぢゃ、雨がはれたらね。」
「うん。」
「ではさよならね。」
 蛙《かへる》の挨拶《あいさつ》の「さよ
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング