茨海小学校
宮沢賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)茨海《ばらうみ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)茨海|狐《きつね》小学校
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 私が茨海《ばらうみ》の野原に行ったのは、火山弾《かざんだん》の手頃《てごろ》な標本を採るためと、それから、あそこに野生の浜茄《はまなす》が生えているという噂《うわさ》を、確めるためとでした。浜茄はご承知のとおり、海岸に生える植物です。それが、あんな、海から三十里もある山脈を隔《へだ》てた野原などに生えるのは、おかしいとみんな云《い》うのです。ある人は、新聞に三つの理由をあげて、あの茨海の野原は、すぐ先頃《せんころ》まで海だったということを論じました。それは第一に、その茨海という名前、第二に浜茄の生えていること、第三にあすこの土を嘗《な》めてみると、たしかに少し鹹《しおから》いような気がすること、とこう云うのですけれども、私はそんなことはどれも証拠《しょうこ》にならないと思います。
 ところが私は、浜茄をとうとう見附《みつ》けませんでした。尤《もっと》も私が見附けなかったからと云って、浜茄があすこにないというわけには行きません。もし反対に一本でも私に見当ったら、それはあるということの証拠にはなりましょう。ですからやっぱりわからないのです。
 火山弾の方は、はじが少し潰《つぶ》れてはいましたが、半日かかってとにかく一つ見附けました。
 見附けたのでしたが、それはつい寄附させられてしまいました。誰《たれ》に寄附させられたのかっていうんですか。誰にって校長にですよ。どこの学校? ええ、どこの学校って正直に云っちまいますとね、茨海|狐《きつね》小学校です。愕《おどろ》いてはいけません。実は茨海狐小学校をそのひるすぎすっかり参観して来たのです。そんなに変な顔をしなくてもいいのです。狐にだまされたのとはちがいます。狐にだまされたのなら狐が狐に見えないで女とか坊《ぼう》さんとかに見えるのでしょう。ところが私のはちゃんと狐を狐に見たのです。狐を狐に見たのが若《も》しだまされたものならば人を人に見るのも人にだまされたという訳です。
 ただ少しおかしいことは人なら小学校もいいけれど狐はどうだろうということですがそれだってあんまりさしつかえありません。まあも少しあとを聞いてごらんなさい。大丈夫《だいじ
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