察図《よさつず》にして持っていたからほかの班のようにまごつかなかった。けれどもなかなかわからない。郡のも十万分一だしほんの大体しか調ばっ[#「ばっ」に「(ママ)」の注記]ていない。猿ヶ石《さるがいし》川の南の平地《ひらち》に十時半ころまでにできた。それからは洪積層《こうせきそう》が旧天王《キーデンノー》の安山集塊岩《あんざんしゅうかいがん》の丘《おか》つづきのにも被《かぶ》さっているかがいちばんの疑問《ぎもん》だったけれどもぼくたちは集塊岩のいくつもの露頭《ろとう》を丘の頂部《ちょうぶ》近くで見附《みつ》けた。結局《けっきょく》洪積|紀《き》は地形図の百四十|米《メートル》の線|以下《いか》という大体の見当も附けてあとは先生が云ったように木の育《そだ》ち工合《ぐあい》や何かを参照《さんしょう》して決《き》めた。ぼくは土性の調査よりも地質《ちしつ》の方が面白《おもしろ》い。土性の方ならただ土をしらべてその場所を地図の上にその色で取《と》っていくだけなのだが地質の方は考えなければいけないしその考えがなかなかうまくあたるのだから。
ぼくらは松林《まつばやし》の中だの萱《かや》の中で何べんもほかの班に出会った。みんなぼくらの地図をのぞきたがった。
萱の中からは何べんも雉子《きじ》も飛《と》んだ。
耕地整理《こうちせいり》になっているところがやっぱり旱害《かんがい》で稲《いね》は殆《ほと》んど仕付《しつ》からなかったらしく赤いみじかい雑草《ざっそう》が生《は》えておまけに一ぱいにひびわれていた。
やっと仕付かった所《ところ》も少しも分蘖《ぶんけつ》せず赤くなって実《み》のはいらない稲がそのまま刈《か》りとられずに立っていた。耕地整理の先に立った人はみんなの為《ため》にしたのだそうだけれどもほんとうにひどいだろう。ぼくらはそこの土性《どせい》もすっかりしらべた。水さえ来るならきっと将来《しょうらい》は反当《たんあたり》三|石《ごく》まではとれるようにできると思う。

午后《ごご》一時に約束《やくそく》の通り各班《かくはん》が猿ヶ石《さるがいし》川の岸《きし》にあるきれいな安山集塊岩《あんざんしゅうかいがん》の露出《ろしゅつ》のところに集《あつま》った。どこからか小梨《こなし》を貰《もら》ったと云《い》って先生はみんなに分けた。ぼくたちはそこで地図を塗《ぬ》りなおしたりした。先生はその場所《ばしょ》では誰《だれ》のもいいとも悪《わる》いとも云わなかった。しばらくやすんでから、こんどはみんなで先生について川の北の花崗岩《かこうがん》だの三|紀《き》の泥岩《でいがん》だのまではいった込《こ》んだ地質《ちしつ》や土性のところを教わってあるいた。図は次《つぎ》の月曜までに清書《せいしょ》して出すことにした。
ぼくはあの図を出して先生に直《なお》してもらったら次の日曜に高橋君《たかはしくん》を頼《たの》んで僕のうちの近所《きんじょ》のをすっかりこしらえてしまうんだ。僕のうちの近くなら洪積《こうせき》と沖積《ちゅうせき》があるきりだしずっと簡単《かんたん》だ。それでも肥料《ひりょう》の入れようやなんかまるでちがうんだから。いまならみんなはまるで反対《はんたい》にやってるんでないかと思う。
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一九二五、十一月十日。
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今日|実習《じっしゅう》が済《す》んでから農舎《のうしゃ》の前に立ってグラジオラスの球根《きゅうこん》の旱《ほ》してあるのを見ていたら武田《たけだ》先生も鶏小屋《にわとりごや》の消毒《しょうどく》だか済んで硫黄華《いおうか》をずぼんへいっぱいつけて来られた。そしてやっぱり球根を見ていられたがそこから大きなのを三つばかり取《と》って僕に呉《く》れた。僕がもじもじしているとこれは新らしい高価《たか》い種類《しゅるい》だよ。君《きみ》にだけやるから来春|植《う》えてみたまえと云った。すると農場の方から花の係《かか》りの内藤《ないとう》先生が来たら武田先生は大へんあわててポケットへしまっておきたまえ、と云った。ぼくは変《へん》な気がしたけれども仕方《しかた》なくポケットへ入れた。すると武田先生は急《いそ》いで農舎の中へはいって農具《のうぐ》だか何だか整理《せいり》し出した。ぼくはいやで仕方なかったので内藤先生が行ってからそっと球根をむしろの中へ返《かえ》して、急いで校舎へ入って実習|服《ふく》を着換《きが》えてうちに帰った。
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一千九百二十六年三月廿〔一字分空白〕日、
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塩水撰《えんすいせん》をやった。うちのが済《す》んでから楢戸《ならど》のもやった。
本にある通りの比重《ひじゅう》でやったら亀《かめ》の尾《お》は半分も残《のこ》らなかった。去年《きょねん》の旱害《かんがい》はいちばんよかった所《ところ》でもこんな工合《ぐあい》だったのだ。けれども陸羽《りくう》一三二|号《ごう》のほうは三|割《わり》ぐらいしか浮く分がなかった。それでも塩水|選《せん》をかけたので恰度《ちょうど》六|斗《と》あったから本田の一町一|反《たん》分には充分《じゅうぶん》だろう。とにかく僕《ぼく》は今日半日で大丈夫《だいじょうぶ》五十円の仕事《しごと》はした訳《わけ》だ。
なぜならいままでは塩水選をしないでやっと反当《たんあたり》二|石《こく》そこそこしかとっていなかったのを今度《こんど》はあちこちの農事試験場《のうじしけんじょう》の発表《はっぴょう》のように一割の二斗ずつの増収《ぞうしゅう》としても一町一反では二石二斗になるのだ。みんなにもほんとうにいいということが判《わか》るようになったら、ぼくは同じ塩水で長根《ちょうこん》ぜんたいのをやるようにしよう。一|軒《けん》のうちで三十円ずつ得《とく》してもこの部落全体《ぶらくぜんたい》では四百五十円になる。それが五、六人ただ半日の仕事《しごと》なのだ。塩水選をする間は父はそこらの冬の間のごみを集《あつ》めて焼《や》いた。籾《もみ》ができると父は細長《ほそなが》くきれいに藁《わら》を通して編《あ》んだ俵《たわら》につめて中へつめた。あれは合理的《ごうりてき》だと思う。湧水《わきみず》がないので、あのつつみへ漬《つ》けた。氷《こおり》がまだどての陰《かげ》には浮いているからちょうど摂氏零度《せっしれいど》ぐらいだろう。十二月にどてのひびを埋《う》めてから水は六分目までたまっていた。今年こそきっといいのだ。あんなひどい旱魃《かんばつ》が二年|続《つづ》いたことさえいままでの気象《きしょう》の統計《とうけい》にはなかったというくらいだもの、どんな偶然《ぐうぜん》が集《あつま》ったって今年まで続くなんてことはないはずだ。気候《きこう》さえあたり前だったら今年は僕はきっといままでの旱魃の損害《そんがい》を恢復《かいふく》してみせる。そして来年《らいねん》からはもううちの経済《けいざい》も楽にするし長根ぜんたいまできっと生々《いきいき》した愉快《ゆかい》なものにしてみせる。
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一千九百二十六年六月十四日 今日はやっと正午《しょうご》から七時まで番水《ばんすい》があたったので樋番《といばん》をした。何せ去年《きょねん》からの巨《おお》きなひびもあるとみえて水はなかなかたまらなかった。くろへ腰掛《こしか》けてこぼこぼはっていく温《あたたか》い水へ足を入れていてついとろっとしたらなんだかぼくが稲《いね》になったような気がした。そしてぼくが桃《もも》いろをした熱病《ねつびょう》にかかっていてそこへいま水が来たのでぼくは足から水を吸《す》いあげているのだった。どきっとして眼《め》をさました。水がこぼこぼ裂目《さけめ》のところで泡《あわ》を吹《ふ》きながらインクのようにゆっくりゆっくりひろがっていったのだ。
 水が来なくなって下田の代掻《しろかき》ができなくなってから今日で恰度《ちょうど》十二日雨が降《ふ》らない。いったいそらがどう変《かわ》ったのだろう。あんな旱魃《かんばつ》の二年|続《つづ》いた記録《きろく》が無《な》いと測候所《そっこうじょ》が云《い》ったのにこれで三年続くわけでないか。大堰《おおぜき》の水もまるで四|寸《すん》ぐらいしかない。夕方になってやっといままでの分へ一わたり水がかかった。
 三時ごろ水がさっぱり来なくなったからどうしたのかと思って大堰の下の岐《わか》れまで行ってみたら権十《ごんじゅう》がこっちをとめてじぶんの方へ向《む》けていた。ぼくはまるで権十が甘藍《かんらん》の夜盗虫《よとうむし》みたいな気がした。顔がむくむく膨《ふく》れていて、おまけにあんな冠《かぶ》らなくてもいいような穴《あな》のあいたつばの下った土方《どかた》しゃっぽをかぶってその上からまた頬《ほお》かぶりをしているのだ。
 手も足も膨れているからぼくはまるで権十が夜盗虫みたいな気がした。何をするんだと云ったら、なんだ、農《のう》学校|終《おわ》ったって自分だけいいことをするなと云うのだ。ぼくもむっとした。何だ、農学校なぞ終っても終らなくてもいまはぼくのとこの番にあたって水を引いているのだ。それを盗《ぬす》んで行くとは何だ。と云ったら、学校へ入ったんでしゃべれるようになったもんな、と云う。ぼくはもう大きな石をたたきつけてやろうとさえ思った。
 けれども権十はそのまま行ってしまったから、ぼくは水をうちの方へ向け直《なお》した。やっぱり権十はぼくを子供《こども》だと思ってぼくだけ居《い》たものだからあんなことをしたのだ。いまにみろ、ぼくは卑怯《ひきょう》なやつらはみんな片《かた》っぱしから叩《たた》きつけてやるから。
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一千九百二十七年八月廿一日
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稲《いね》がとうとう倒《たお》れてしまった。ぼくはもうどうしていいかわからない。あれぐらい昨日《きのう》までしっかりしていたのに、明方《あけがた》の烈《はげ》しい雷雨《らいう》からさっきまでにほとんど半分倒れてしまった。喜作《きさく》のもこっそり行ってみたけれどもやっぱり倒れた。いまもまだ降《ふ》っている。父はわらって大丈夫《だいじょうぶ》大丈夫だと云うけれどもそれはぼくをなだめるためでじつは大へんひどいのだ。母はまるでぼくのことばかり心配《しんぱい》している。ぼくはうちの稲が倒れただけなら何でもないのだ。ぼくが肥料《ひりょう》を教えた喜作のだってそれだけなら何でもない。それだけならぼくは冬に鉄道《てつどう》へ出ても行商《ぎょうしょう》してもきっと取《と》り返《かえ》しをつける。けれども、あれぐらい手入をしてあれぐらい肥料を考えてやってそれでこんなになるのならもう村はどこももっとよくなる見込《みこみ》はないのだ。ぼくはどこへも相談《そうだん》に行くとこがない。学校へ行ったってだめだ。……先生はああ倒れたのか、苗《なえ》が弱くはなかったかな、あんまり力を落《おと》してはいけないよ、ぐらいのことを云って笑《わら》うだけのもんだ。日誌《にっし》、日誌、ぼくはこの書きつける日誌がなかったら今夜どうしているだろう。せきはとめたし落し口は切ったし田のなかへはまだ入られないしどうすることもできずだまってあのぼしょぼしょしたりまたおどすように強くなったりする雨の音を聞いていなければならないのだ。いったいこの雨があしたのうちに晴れるだなんてことがあるだろうか。
ああどうでもいい、なるようになるんだ。あした雨が晴れるか晴れないかよりも、今夜ぼくが…………を一足つくれることのほうがよっぽどたしかなんだから。
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底本:「イーハトーボ農学校の春」角川文庫、角川書店
   1996(平成8)年3月25日初版発行
底本の親本:「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房
   1995(平成7)年5月
※底本は、一つ目の「猿ヶ石」の「ヶ」(区点番号5−86)は大振りに、二つ目の「猿ヶ石」の
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