だけで何とも云わなかった。けれどもきっと父はやってくれるだろう。そしたら僕は大きな手帳《てちょう》へ二|冊《さつ》も書いて来て見せよう。
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五月七日
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今朝父へ学校からの手紙を渡してそれからいろいろ先生の云ったことを話そうとした。すると父は手紙を読んでしまってあとはなぜか大へんあたりに気兼《きが》ねしたようすで僕が半分しか云わないうちに止めてしまった。そしてよく相談《そうだん》するからと云った。祖母《そぼ》や母に気兼ねをしているのかもしれない。
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五月八日 行く人が大ぶあるようだ。けれどもうちでは誰《だれ》も何とも云わない。だから僕《ぼく》はずいぶんつらい。
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五月九日、
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三時間目に菊池《きくち》先生がまたいろいろ話された。行くときまった人はみんな面白《おもしろ》そうにして聞いていた。僕は頭が熱《あつ》くて痛《いた》くなった。ああ北海道、雑嚢《ざつのう》を下げてマントをぐるぐる捲《ま》いて肩《かた》にかけて津軽海峡《つがるかいきょう》をみんなと船で渡《わた》ったらどんなに嬉《うれ》しいだろう。
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五月十日 今日もだめだ。


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五月十一日 日曜 曇《くもり》 午前は母や祖母《そぼ》といっしょに田打《たう》ちをした。午后《ごご》はうちのひば垣《がき》をはさんだ。何だか修学旅行《しゅうがくりょこう》の話が出てから家中へんになってしまった。僕はもう行かなくてもいい。行かなくてもいいから学校ではあと授業《じゅぎょう》の時間に行く人を調《しら》べたり旅行の話をしたりしなければいいのだ。
 北海道なんか何だ。ぼくは今に働《はたら》いて自分で金をもうけてどこへでも行くんだ。ブラジルへでも行ってみせる。


五月十二日、今日また人数を調べた。二十八人に四人足りなかった。みんなは僕《ぼく》だの斉藤君《さいとうくん》だの行かないので旅行が不成立《ふせいりつ》になると云《い》ってしきりに責《せ》めた。武田《たけだ》先生まで何だか変《へん》な顔をして僕に行けと云う。僕はほんとうにつらい。明后日《みょうごにち》までにすっかり決《き》まるのだ。夕方父が帰って炉《ろ》ばたに居《い》たからぼくは思い切って父にもう一|度《ど》学校の事情《じじょう》を云った。
 すると父が母もまだ伊勢詣《いせまい》りさえしないのだし祖母《そぼ》だって伊勢詣り一ぺんとここらの観音巡《かんのんめぐ》り一ぺんしただけこの十何年|死《し》ぬまでに善光寺《ぜんこうじ》へお詣りしたいとそればかり云っているのだ、ことに去年《きょねん》からのここら全体《ぜんたい》の旱魃《かんばつ》でいま外へ遊《あそ》んで歩くなんてことはとなりやみんなへ悪《わる》くてどうもいけないということを云った。
 僕はいくら下を向いていても炉のなかへ涙《なみだ》がこぼれて仕方《しかた》なかった。それでもしばらくたってからそんなら僕はもう行かなくてもいいからと云《い》った。ぼくはみんなが修学旅行《しゅうがくりょこう》へ発《た》つ間休みだといって学校は欠席《けっせき》しようと思ったのだ。すると父がまたしばらくだまっていたがとにかくもいちど相談《そうだん》するからと云ってあとはいろいろ稲《いね》の種類《しゅるい》のことだのふだんきかないようなことまでぼくにきいた。ぼくはけれども気持《きも》ちがさっぱりした。


五月十三日 今日学校から帰って田に行ってみたら母だけ一人|居《い》て何だか嬉《うれ》しそうにして田の畦《あぜ》を切っていた。
 何かあったのかと思ってきいたら、今にお父さんから聞けといった。ぼくはきっと修学旅行のことだと思った。
 僕《ぼく》もそこで母が家へ帰るまで田打《たう》ちをして助《たす》けた。
 けれども父はまだ帰って来ない。


五月十四日、昨夜《さくや》父が晩《おそ》く帰って来て、僕を修学旅行にやると云った。母も嬉しそうだったし祖母もいろいろ向《むこ》うのことを聞いたことを云った。祖母の云うのはみんな北海道|開拓当時《かいたくとうじ》のことらしくて熊《くま》だのアイヌだの南瓜《かぼちゃ》の飯《めし》や玉蜀黍《とうもろこし》の団子《だんご》やいまとはよほどちがうだろうと思われた。今日学校へ行って武田《たけだ》先生へ行くと云《い》って届《とど》けたら先生も大へんよろこんだ。もうあと二人足りないけれども定員《ていいん》を超《こ》えたことにして県《けん》へは申請書《しんせいしょ》を出したそうだ。ぼくはもう行ってきっとすっかり見て来る、そしてみんなへ詳《くわ》しく話すのだ。
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一九二五、五、一八、
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汽車は闇《やみ》のなかをどんどん北へ走って行く。盛岡《もりおか》の上のそらがまだぼうっと明るく濁《にご》って見える。黒い藪《やぶ》だの松林《まつばやし》だのぐんぐん窓《まど》を通って行く。北上《きたかみ》山地の上のへりが時々かすかに見える。
さあいよいよぼくらも岩手県《いわてけん》をはなれるのだ。
うちではみんなもう寝《ね》ただろう。祖母さんはぼくにお守《まも》りを借《か》してくれた。さよなら、北上山地、北上川、岩手県の夜の風、今武田先生が廻《まわ》ってみんなの席《せき》の工合《ぐあい》や何かを見て行った。
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一九二六[#「六」に「(ママ)」の注記]、五、一九、〔以下空白〕


五月十九日

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      *

いま汽車は青森県の海岸《かいがん》を走っている。海は針《はり》をたくさん並《なら》べたように光っているし木のいっぱい生《は》えた三角な島もある。いま見ているこの白い海が太平洋《たいへいよう》なのだ。その向《むこ》うにアメリカがほんとうにあるのだ。ぼくは何だか変《へん》な気がする。
海が岬《みさき》で見えなくなった。松林《まつばやし》だ。また見える。次《つぎ》は浅虫《あさむし》だ。石を載《の》せた屋根《やね》も見える。何て愉快《ゆかい》だろう。

      *

青森の町は盛岡《もりおか》ぐらいだった。停車場《ていしゃじょう》の前にはバナナだの苹果《りんご》だの売る人がたくさんいた。待合室《まちあいしつ》は大きくてたくさんの人が顔を洗《あら》ったり物《もの》を食べたりしている。待合室で白い服《ふく》を着《き》た車掌《しゃしょう》みたいな人が蕎麦《そば》も売っているのはおかしい。

      *

船はいま黒い煙《けむり》を青森の方へ長くひいて下北半島《しもきたはんとう》と津軽《つがる》半島の間を通って海峡《かいきょう》へ出るところだ。みんなは校歌をうたっている。けむりの影《かげ》は波《なみ》にうつって黒い鏡《かがみ》のようだ。津軽半島の方はまるで学校にある広重《ひろしげ》の絵のようだ。山の谷がみんな海まで来ているのだ。そして海岸《かいがん》にわずかの砂浜《すなはま》があってそこには巨《おお》きな黒松《くろまつ》の並木《なみき》のある街道《かいどう》が通っている。少し大きな谷には小さな家が二、三十も建《た》っていてそこの浜には五、六そうの舟《ふね》もある。
さっきから見えていた白い燈台《とうだい》はすぐそこだ。ぼくは船が横《よこ》を通る間にだまってすっかり見てやろう。絵が上手《じょうず》だといいんだけれども僕《ぼく》は絵は描《か》けないから覚《おぼ》えて行ってみんな話すのだ。風は寒《さむ》いけれどもいい天気だ。僕は少しも船に酔《よ》わない。ほかにも誰《だれ》も酔ったものはない。

      *

いるかの群《むれ》が船の横を通っている。いちばんはじめに見附《みつ》けたのは僕だ。ちょっと向うを見たら何か黒いものが波《なみ》から抜《ぬ》け出て小さな弧《こ》を描《えが》いてまた波へはいったのでどうしたのかと思ってみていたらまたすぐ近くにも出た。それからあっちにもこっちにも出た。そこでぼくはみんなに知らせた。何だか手を気を付《つ》けの姿勢《しせい》で水を出たり入ったりしているようで滑稽《こっけい》だ。
先生も何だかわからなかったようだが漁師《りょうし》の頭《かしら》らしい洋服《ようふく》を着《き》た肥《ふと》った人がああいるかですと云《い》った。あんまりみんな甲板《かんぱん》のこっち側《がわ》へばかり来たものだから少し船が傾《かたむ》いた。
風が出てきた。
何だか波が高くなってきた。
東も西も海だ。向うにもう北海道が見える。何だか工合《ぐあい》がわるくなってきた。

      *

いま汽車は函館《はこだて》を発《た》って小樽《おたる》へ向《むか》って走っている。窓《まど》の外はまっくらだ。もう十一時だ。函館の公園はたったいま見て来たばかりだけれどもまるで夢《ゆめ》のようだ。
巨《おお》きな桜《さくら》へみんな百ぐらいずつの電燈《でんとう》がついていた。それに赤や青の灯《ひ》や池にはかきつばたの形した電燈《でんとう》の仕掛《しか》けものそれに港《みなと》の船の灯や電車の火花じつにうつくしかった。けれどもぼくは昨夜《さくや》からよく寝《ね》ないのでつかれた。書かないでおいたってあんなうつくしい景色《けしき》は忘《わす》れない。それからひるは過燐酸《かりんさん》の工場と五稜郭《ごりょうかく》。過燐酸|石灰《せっかい》、硫酸《りゅうさん》もつくる。
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五月廿日

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      *

いま窓《まど》の右手にえぞ富士《ふじ》が見える。火山だ。頭が平《ひら》たい。焼《や》いた枕木《まくらぎ》でこさえた小さな家がある。熊笹《くまざさ》が茂《しげ》っている。植民地《しょくみんち》だ。

      *

いま小樽《おたる》の公園に居《い》る。高等商業《こうとうしょうぎょう》の標本室《ひょうほんしつ》も見てきた。馬鈴薯《ばれいしょ》からできるもの百五、六十|種《しゅ》の標本が面白《おもしろ》かった。
この公園も丘《おか》になっている。白樺《しらかば》がたくさんある。まっ青《さお》な小樽|湾《わん》が一目だ。軍艦《ぐんかん》が入っているので海軍には旗《はた》も立っている。時間があれば見せるのだがと武田《たけだ》先生が云った。ベンチへ座《すわ》ってやすんでいると赤い蟹《かに》をゆでたのを売りに来る。何だか怖《こわ》いようだ。よくあんなの食べるものだ。

      *
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一千九百廿五年十月十六日
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一時間目の修身《しゅうしん》の講義《こうぎ》が済《す》んでもまだ時間が余《あま》っていたら校長が何でも質問《しつもん》していいと云った。けれども誰《だれ》も黙《だま》っていて下を向《む》いているばかりだった。ききたいことは僕《ぼく》だってみんなだって沢山《たくさん》あるのだ。けれどもぼくらがほんとうにききたいことをきくと先生はきっと顔をおかしくするからだめなのだ。
なぜ修身がほんとうにわれわれのしなければならないと信《しん》ずることを教えるものなら、どんな質問でも出さしてはっきりそれをほんとうかうそか示《しめ》さないのだろう。
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一千九百廿五年十月廿五日
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今日は土性調査《どせいちょうさ》の実習《じっしゅう》だった。僕《ぼく》は第《だい》二|班《はん》の班長で図板《ずばん》をもった。あとは五人でハムマアだの検土杖《けんどじょう》だの試験紙《しけんし》だの塩化加里《えんかカリ》の瓶《びん》だの持《も》って学校を出るときの愉快《ゆかい》さは何とも云《い》われなかった。谷《たに》先生もほんとうに愉快そうだった。六班がみんな思い思いの計画で別々《べつべつ》のコースをとって調査にかかった。僕は郡《ぐん》で調《しら》べたのをちゃんと写《うつ》して予
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