到着《とうちゃく》して家の中に入って行くのをたしかに見ました。
 そこでネネムは教室を出てはしご段を降りますと、そこには学生が実に沢山泣いていました。全く三千六百五十三回、則《すなわ》ち閏《うるう》年も入れて十年という間、日曜も夏休みもなしに落第ばかりしていては、これが泣かないでいられましょうか。けれどもネネムは全くそれとは違《ちが》います。
 元気よく大学校の門を出て、自分の胸の番地を指さして通りかかったくらげのようなばけものに、どう行ったらいいかをたずねました。
 するとそのばけものは、ひどく叮寧におじぎをして、
「ええ。それは世界裁判長のお邸《やしき》でございます。ここから二チェーンほどおいでになりますと、大きな粘土《ねんど》でかためた家がございます。すぐおわかりでございましょう。どうか私もよろしくお引き立てをねがいます。」と云って又《また》叮寧におじぎをしました。
 ネネムはそこで一時間一ノット一チェーンの速さで、そちらへ進んで参りました。たちまち道の右側に、その粘土作りの大きな家がしゃんと立って、世界裁判長|官邸《かんてい》と看板がかかって居りました。
「ご免なさい。ご免なさい。」とネネムは赤い髪を掻《か》きながら云いました。
 すると家の中からペタペタペタペタ沢山の沢山のばけものどもが出て参りました。
 みんなまっ黒な長い服を着て、恭々《うやうや》しく礼をいたしました。
「私は大学校のフゥフィーボー先生のご紹介《しょうかい》で参りましたが世界裁判長に一寸お目にかかれましょうか。」
 するとみんなは口をそろえて云いました。
「それはあなたでございます。あなたがその裁判長でございます。」
「なるほど、そうですか。するとあなた方は何ですか。」
「私どもはあなたの部下です。判事や検事やなんかです。」
「そうですか。それでは私はここの主人ですね。」
「さようでございます。」
 こんなような訳でペンネンネンネンネン・ネネムは一ぺんに世界裁判長になって、みんなに囲まれて裁判長室の海綿でこしらえた椅子《いす》にどっかりと座りました。
 すると一人の判事が恭々しく申しました。
「今晩開廷の運びになっている件が二つございますが、いかがでございましょうお疲《つか》れでいらっしゃいましょうか。」
「いいや、よろしい。やります。しかし裁判の方針はどうですか。」
「はい。裁判の方針はこちらの世界の人民が向うの世界になるべく顔を出さぬように致したいのでございます。」
「わかりました。それではすぐやります。」
 ネネムはまっ白なちぢれ毛のかつらを被《かぶ》って黒い長い服を着て裁判室に出て行きました。部下がもう三十人ばかり席についています。
 ネネムは正面の一番高い処に座りました。向うの隅《すみ》の小さな戸口から、ばけものの番兵に引っぱられて出て来たのはせいの高い眼《め》の鋭《するど》い灰色のやつで、片手にほうきを持って居りました。一人の検事が声高く書類を読み上げました。
「ザシキワラシ。二十二|歳《さい》。アツレキ三十一年二月七日、表、日本岩手県|上閉伊《かみへい》郡|青笹《あおざさ》村|字《あざ》瀬戸二十一番戸伊藤万太の宅、八畳座敷中に故なくして擅《ほしいまま》に出現して万太の長男千太、八歳を気絶せしめたる件。」
「よろしい。わかった。」とネネムの裁判長が云いました。
「姓名|年齢《ねんれい》、その通りに相違《そうい》ないか。」
「相違ありません。」
「その方はアツレキ三十一年二月七日、伊藤万太方の八畳座敷に故なくして擅に出現したることは、しかとその通りに相違ないか。」
「全く相違ありません。」
「出現後は何を致した。」
「ザシキをザワッザワッと掃《は》いて居りました。」
「何の為《ため》に掃いたのだ。」
「風を入れる為です。」
「よろしい。その点は実に公益である。本官に於《おい》て大いに同情を呈《てい》する。しかしながらすでに妄《みだ》りに人の居ない座敷の中に出現して、箒《ほうき》の音を発した為に、その音に愕《おど》ろいて一寸のぞいて見た子供が気絶をしたとなれば、これは明らかな出現罪である。依《よ》って今日より七日間当ムムネ市の街路の掃除を命ずる。今後はばけもの世界長の許可なくして、妄りに向う側に出現することはならん。」
「かしこまりました。ありがとうございます。」
「実に名断だね。どうも実に今度の長官は偉い。」と判事たちは互《たがい》にささやき合いました。
 ザシキワラシはおじぎをしてよろこんで引っ込みました。
 次に来たのは鳶《とび》色と白との粘土で顔をすっかり隈取《くまど》って、口が耳まで裂《さ》けて、胸や足ははだかで、腰《こし》に厚い簑《みの》のようなものを巻いたばけものでした。一人の判事が書類を読みあげました。
「ウウウウエイ。三十五歳。アツレキ三十一年七月一日夜、表、アフリカ、コンゴオの林中の空地に於て故なくして擅《ほしいまま》に出現、舞踏《ぶとう》中の土地人を恐怖《きょうふ》散乱せしめたる件。」
「よろしい、わかった。」とネネムは云いました。
「姓名年齢その通りに相違ないか。」
「へい。その通りです。」
「その方はアツレキ三十一年七月一日夜、アフリカ、コンゴオの林中空地に於て、故なくして擅に出現、折柄《おりから》月明によって歌舞、歓をなせる所の一群を恐怖散乱せしめたことは、しかとその通りにちがいないか。」
「全くその通りです。」
「よろしい。何の目的で出現したのだ。既《すで》に法律上故なく擅となってあるが、その方の意中を今一応|尋《たず》ねよう。」
「へい。その実は、あまり面白《おもしろ》かったもんですから。へい。どうも相済みません。あまり面白かったんで。ケロ、ケロ、ケロ、ケロロ、ケロ、ケロ。」
「控《ひか》えろ。」
「へい。全くどうも相済みません。恐《おそ》れ入りました。」
「うん。お前は、最《もっとも》明らかな出現罪である。依って明日より二十二日間、ムッセン街道の見まわりを命ずる。今後ばけものの世界長の許可なくして、妄《みだ》りに向側に出現いたしてはならんぞ。」
「かしこまりました。ありがとうございます。」そのばけものも引っ込みました。
「実に名断だ。いい判決だね。」とみんなささやき合いました。その時向うの窓がガタリと開いて
「どうだ、いい裁判長だろう。みんな感心したかい。」と云う声がしました。それはさっきの灰色の一メートルある顔、フゥフィーボー先生でした。
「ブラボオ。フゥフィーボー博士。ブラボオ。」と判事も検事もみんな怒鳴《どな》りました。その時はもう博士の顔は消えて窓はガタンとしまりました。
 そこでネネムは自分の室《へや》に帰って白いちぢれ毛のかつらを除《と》りました。それから寝《ね》ました。
 あとはあしたのことです。

   三、ペンネンネンネンネン・ネネムの巡視《じゅんし》

 ばけもの世界裁判長になったペンネンネンネンネン・ネネムは、次の朝六時に起きて、すぐ部下の検事を一人呼びました。
「今日は何時に公判の運びになっているか。」
「本日もやはり晩の七時から二件だけございます。」
「そうか。よろしい。それでは今朝は八時から世界長に挨拶《あいさつ》に出よう。それからすぐ巡視だ。みんなその支度《したく》をしろ。」
「かしこまりました。」
 そこでペンネンネンネンネン・ネネムは、燕麦《オート》を一|把《わ》と、豆汁《まめじる》を二リットルで軽く朝飯をすまして、それから三十人の部下をつれて世界長の官邸に行きました。
 ばけもの世界長は、もう大広間の正面に座って待っています。世界長は身のたけ百九十尺もある中世代の瑪瑙木《めのうぼく》でした。
 ペンネンネンネンネン・ネネムは、恭々しく進んで片膝《かたひざ》を床につけて頭を下げました。
「ペンネンネンネンネン・ネネム裁判長はおまえであるか。」
「さようでございます。永久に忠勤を誓《ちか》い奉《たてまつ》ります。」
「うん。しっかりやって呉《く》れ。ゆうべの裁判のことはもう聞いた。それに今朝はこれから巡視に出るそうだな。」
「はい。恐れ入ります。」
「よろしい。どうかしっかりやって呉れ。」
「かしこまりました。」
 そこでペンネンネンネンネン・ネネムは又うやうやしく世界長に礼をして、後戻《あともど》りして退きました。三十人の部下はもう世界長の首尾がいいので大喜びです。
 ペンネンネンネンネン・ネネムも大機嫌《だいきげん》でそれから町を巡視しはじめました。
 ばけもの世界のハンムンムンムンムン・ムムネ市の盛《さか》んなことは、今日とて少しも変りません。億百万のばけものどもは、通り過ぎ通りかかり、行きあい行き過ぎ、発生し消滅《しょうめつ》し、聨合《れんごう》し融合《ゆうごう》し、再現し進行し、それはそれは、実にどうも見事なもんです。ネネムもいまさらながら、つくづくと感服いたしました。
 その時向うから、トッテントッテントッテンテンと、チャリネルという楽器を叩《たた》いて、小さな赤い旗をたてた車が、ほんの少しずつこっちへやって来ました。見物のばけものがまるで赤山のようにそのまわりについて参ります。
 ペンネンネンネンネン・ネネムは、行きあいながらふと見ますと、その赤い旗には、白くフクジロと染め抜いてあって、その横にせいの高さ三尺ばかりの、顔がまるでじじいのように皺《しわ》くちゃな殊《こと》に鼻が一尺ばかりもある怖《こわ》い子供のようなものが、小さな半ずぼんをはいて立ち、車を引っ張っている黒い硬《かた》いばけものから、「フクジロ印」という商標のマッチを、五つばかり受け取っていました。ネネムは何をするのかと思ってもっと見ていますと、そのいやなものはマッチを持ってよちよち歩き出しました。
 赤山のようなばけものの見物は、わいわいそれについて行きます。一人の若いばけものが、うしろから押されてちょっとそのいやなものにさわりましたら、そのフクジロといういやなものはくるりと振り向いて、いきなりピシャリとその若ばけものの頬《ほっ》ぺたを撲《なぐ》りつけました。
 それからいやなものは向うの荒物《あらもの》屋に行きました。その荒物屋というのは、ばけもの歯みがきや、ばけもの楊子《ようじ》や、手拭《てぬぐい》やずぼん、前掛《まえかけ》などまで、すべてばけもの用具一式を売っているのでした。
 フクジロがよちよちはいって行きますと、荒物屋のおかみさんは、怖《こわ》がって逃《に》げようとしました。おかみさんだって顔がまるで獏《ばく》のようで、立派なばけものでしたが、小さくてしわくちゃなフクジロを見ては、もうすっかりおびえあがってしまったのでした。
「おかみさん。フクジロ・マッチ買ってお呉れ。」
 おかみさんはやっと気を落ちつけて云いました。
「いくらですか。ひとつ。」
「十円。」
 おかみさんは泣きそうになりました。
「さあ買ってお呉れ。買わなかったら踊《おどり》をやるぜ。」
「買います、買います。踊の方はいりません。そら、十円。」おかみさんは青くなってブルブルしながら銭函《ぜにばこ》からお金を集めて十円出しました。
「ありがとう。ヘン。」と云いながらそのいやなものは店を出ました。
 そして今度は、となりのばけもの酒屋にはいりました。見物はわいわいついて行きます。酒屋のはげ頭のおじいさんばけもの[#「おじいさんばけもの」に傍線]も、やっぱりぶるぶるしながら十円出しました。
 その隣《となり》はタン屋という店でしたが、ここでも主人が黄色な顔を緑色にしてふるえながら、十円でマッチ一つ買いました。
「これはいかん。実にけしからん。こう云ういやなものが町の中を勝手に歩くということはおれの恥辱《ちじょく》だ。いいからひっくくってしまえ。」とペンネンネンネンネン・ネネムは部下の検事に命令しました。一人の検事がすぐ進んで行ってタン屋の店から出て来るばかりのそのいやなものをくるくる十重《とえ》ばかりにひっくくってしまいました。ペンネンネンネンネン・ネネムがみんなを押《お》し分けて前に出て云いました。
「こら
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