めて置いていつでも払《はら》ってやるよ。その代り十斤に足りなかったら足りない分がお前の損さ。その分かしにして置くよ。」
ネネムは実にがっかりしました。向うの木の二人の男はもういくら星あかりにすかして見ても居ないようでした。きっとあんまり仕事がつらくて消滅《しょうめつ》してしまったのでしょう。さてネネムは決心しました。それからよるもひるも栗の木の湯気とばけものパンと見えない網と紳士と昆布と、これだけを相手にして実に十年というものこの仕事をつづけました。これらの対手《あいて》の中でもパンと昆布とがまず大将でした。はじめの四年は毎日毎日借りばかり次の五年でそれを払いおしまいの三ヶ月でお金がたまりました。そこで下に降りてたまった三百ドルをふところにしてばけもの世界のまちの方へ歩き出しました。
二、ペンネンネンネンネン・ネネムの立身
ペンネンネンネンネン・ネネムは十年のあいだ木の上に直立し続けた為《ため》にしきりに痛む膝《ひざ》を撫《な》でながら、森を出て参りました。森の出口に小さな雑貨商がありましたので、ネネムは店にはいって、まっ黒な上着とズボンを一つ買いました。それから急いでそれを着ながら考えました。
「何か学問をして書記になりたいもんだな。もう投げるようなたぐるようなことは考えただけでも命が縮まる。よしきっと書記になるぞ。」
ペンネンネンネンネン・ネネムはお銭《あし》を払って店を出る時ちらっと向うの姿見にうつった自分の姿を見ました。
着物が夜のようにまっ黒、縮れた赤毛が頭から肩《かた》にふさふさ垂れまっ青な眼《め》はかがやきそれが自分だかと疑った位立派でした。
ネネムは嬉《うれ》しくて口笛《くちぶえ》を吹いてただ一息に三十ノットばかり走りました。
「ハンムンムンムンムン・ムムネの市まで、もうどれ位ありましょうか。」とペンネンネンネンネン・ネネムが、向うからふらふらやって来た黄色な影法師のばけ物にたずねました。
「そうだね。一寸ここまでおいで。」その黄色な幽霊《ゆうれい》は、ネネムの四角な袖《そで》のはじをつまんで、一本のばけものりんご[#「ばけものりんご」に傍線]の木の下まで連れて行って、自分の片足をりんごの木の根にそろえて置いて云いました。
「あなたも片足をここまで出しなさい。」
ネネムは急いでその通りしますとその黄色な幽霊は、屈《かが》んで片っ方の目をつぶって、足さきがりんごの木の根とよくそろっているか検査したあとで云いました。
「いいか。ハンムンムンムンムン・ムムネ市の入口までは、丁度この足さきから六ノット六チェーンあるよ。それでは途中《とちゅう》気をつけておいで。」そしてくるっとまわって向うへ行ってしまいました。
ネネムはそのうしろから、ていねいにお辞儀をして、
「ああありがとうございます。六ノット六チェーンならば、私が一時間一ノット一チェーンずつあるきますと六時間で参れます。一時間三ノット三チェーンずつあるきますと二時間で参れます。すっかり見当がつきまして、こんなうれしいことはありません。」と云いながら、もう一つ頭を下げました。赤毛はじゃらんと下に垂《さ》がりましたけれども、実は黄色の幽霊はもうずうっと向うのばけもの世界のかげろうの立つ畑の中にでもはいったらしく、影もかたちもありませんでした。
そこでネネムは又あるき出しました。すると又向うから無暗《むやみ》にぎらぎら光る鼠《ねずみ》色の男が、赤いゴム靴《ぐつ》をはいてやって参りました。そしてネネムをじろじろ見ていましたが、突然《とつぜん》そばに走って来て、ネネムの右の手首をしっかりつかんで云いました。
「おい。お前は森の中の昆布《こんぶ》採りがいやになってこっちへ出て来た様子だが、一体これから何が目的だ。」
ネネムはこれはきっと探偵《たんてい》にちがいないと思いましたので、堅《かた》くなって答えました。
「はい。私は書記が目的であります。」
するとその男は左手で短いひげをひねって一寸考えてから云いました。
「ははあ、書記が目的か。して見ると何だな。お前は森の中であんまりばけものパンばかり喰ったな。」
ネネムはすっかり図星《ずぼし》をさされて、面くらって左手で頭を掻《か》きました。
「はい実は少少たべすぎたかと存じます。」
「そうだろう。きっとそうにちがいない。よろしい。お前の身分や考えはよく諒解《りょうかい》した。行きなさい。わしはムムネ市の刑事だ。」
ネネムはそこでやっと安心してていねいにおじぎをして又町の方へ行きました。
丁度一時間と六分かかって、三ノット三チェーンを歩いたとき、ネネムは一人の百姓のおかみさんばけものと会いました。その人は遠くからいかにも不思議そうな顔をして来ましたが、とうとう泣き出してかけ寄りました。
「まあ、クエクや。よく帰っておいでだね。まあ、お前はわたしを忘れてしまったのかい。ああなさけない。」
ネネムは少し面くらいましたが、ははあ、これはきっと人ちがいだと気がつきましたので急いで云いました。
「いいえ、おかみさん。私はクエクという人ではありません。私はペンネンネンネンネン・ネネムというのです。」
するとその橙《だいだい》色の女のばけものはやっと気がついたと見えて俄《にわ》かに泣き顔をやめて云いました。
「これはどうもとんだ失礼をいたしました。あなたのおなりがあんまりせがれそっくりなもんですから。」
「いいえ。どう致《いた》しまして。私は今度はじめてムムネの市に出る処《ところ》です。」
「まあ、そうでしたか。うちのせがれも丁度あなたと同じ年ころでした。まあ、お髪《くし》のちぢれ工合《ぐあい》から、お耳のキラキラする工合、何から何までそっくりです。それにまあ、なめくじばけもの[#「なめくじばけもの」に傍線]のような柔《やわ》らかなおあしに、硬《かた》いはがねのわらじをはいて、なにが御志願でいらしゃるのやら。おお、うちのせがれもこんなわらじでどこを今ごろ、ポオ、ポオ、ポオ、ポオ。」とそのおかみさんばけものは泣き出しました。ネネムは困って、
「ね、おかみさん。あなたのむすこさんは、もうきっとどこかの書記になってるんでしょう。きっとじきお迎《むか》いをよこすにちがいありません。そんなにお泣きなさらなくてもいいでしょう。私は急ぎますからこれで失礼いたします。」と云いながらクラリオネットのようなすすり泣きの声をあとに、急いでそこを立ち去りました。
さてそれから十五分でネネムはムムネの市までもう三チェーンの所まで来ました。ネネムはそこで髪《かみ》をすっかり直して、それから路《みち》ばたの水銀の流れで顔を洗い、市にはいって行く支度《したく》をしました。
それからなるべく心を落ちつけてだんだん市に近づきますと、さすがはばけもの世界の首府のけはいは、早くもネネムに感じました。
ノンノンノンノンノンといううなりは地の〔以下原稿数枚分焼失〕
「今授業中だよ。やかましいやつだ。用があるならはいって来い。」とどなりましたので、学校の建物はぐらぐらしました。
ネネムはそこで思い切って、なるべく足音を立てないように二階にあがってその教室にはいりました。教室の広いことはまるで野原です。さまざまの形、とうがらしや、臼《うす》や、鋏《はさみ》や、赤や白や、実にさまざまの学生のばけものがぎっしりです。向うには大きな崖《がけ》のくらいある黒板がつるしてあって、せの高さ百尺あまりのさっきの先生のばけものが、講義をやって居りました。
「それでその、もしも塩素が赤い色のものならば、これは最も明らかな不合理である。黄色でなくてはならん。して見ると黄色という事はずいぶん大切なもんだ。黄という字はこう書くのだ。」
先生は黒板を向いて、両手や鼻や口や肱《ひじ》やカラアや髪の毛やなにかで一ぺんに三百ばかり黄という字を書きました。生徒はみんな大急ぎで筆記帳に黄という字を一杯《いっぱい》書きましたがとても先生のようにうまくは出来ません。
ネネムはそっと一番うしろの席に座《すわ》って、隣《とな》りの赤と白のまだらのばけもの学生に低くたずねました。
「ね、この先生は何て云うんですか。」
「お前知らなかったのかい。フゥフィーボー博士さ。化学の。」とその赤いばけものは馬鹿《ばか》にしたように目を光らせて答えました。
「あっ、そうでしたか。この先生ですか。名高い人なんですね。」とネネムはそっとつぶやきながら自分もふところから鉛筆《えんぴつ》と手帳を出して筆記をはじめました。
その時教室にパッと電燈《でんとう》がつきました。もう夕方だったのです。博士が向うで叫んでいます。
「しからば何が故《ゆえ》に夕方緑色が判然とするか。けだしこれはプウルウキインイイの現象によるのである。プウルウキインイイとはこう書く。」
博士はみみずのような横文字を一ぺんに三百ばかり書きました。ネネムも一生けん命書きました。それから博士は俄かに手を大きくひろげて
「げにも、かの天にありて濛々《もうもう》たる星雲、地にありてはあいまいたるばけ物律、これはこれ宇宙を支配す。」と云いながらテーブルの上に飛びあがって腕《うで》を組み堅く口を結んできっとあたりを見まわしました。
学生どもはみんな興奮して
「ブラボオ。フゥフィーボー先生。ブラボオ。」と叫《さけ》んでそれからバタバタ、ノートを閉じました。ネネムもすっかり釣《つ》り込《こ》まれて、
「ブラボオ。」と叫んで堅く堅く決心したように口を結びました。この時先生はやっとほんのすこうし笑って一段声を低くして云いました。
「みなさん。これからすぐ卒業試験にかかります。一人ずつ私の前をお通りなさい。」と云いました。
学生どもは、そこで一人ずつ順々に、先生の前を通りながらノートを開いて見せました。
先生はそれを一寸見てそれから一言か二言質問をして、それから白墨《はくぼく》でせなかに「及」とか「落」とか「同情及」とか「退校」とか書くのでした。
書かれる間学生はいかにもくすぐったそうに首をちぢめているのでした。書かれた学生は、いかにも気がかりらしく、そっと肩をすぼめて廊下《ろうか》まで出て、友達に読んで貰《もら》って、よろこんだり泣いたりするのでした。ぐんぐんぐんぐん、試験がすんで、いよいよネネム一人になりました。ネネムがノートを出した時、フゥフィーボー博士は大きなあくびをやりましたので、ノートはスポリと先生に吸い込まれてしまいました。先生はそれを別段気にかけるでもないらしく、コクッと呑《の》んでしまって云いました。
「よろしい。ノートは大へんによく出来ている。そんなら問題を答えなさい。煙突《えんとつ》から出るけむりには何種類あるか。」
「四種類あります。もしその種類を申しますならば、黒、白、青、無色です。」
「うん。無色の煙《けむり》に気がついた所は、実にどうも偉《えら》い。そんなら形はどうであるか。」
「風のない時はたての棒、風の強い時は横の棒、その他はみみずなどの形。あまり煙の少ない時はコルク抜《ぬ》きのようにもなります。」
「よろしい。お前は今日の試験では一等だ。何か望みがあるなら云いなさい。」
「書記になりたいのです。」
「そうか。よろしい。わしの名刺《めいし》に向うの番地を書いてやるから、そこへすぐ今夜行きなさい。」
ネネムは名刺を呉《く》れるかと思って待っていますと、博士はいきなり白墨をとり直してネネムの胸に、「セム二十二号。」と書きました。
ネネムはよろこんで叮寧《ていねい》におじぎをして先生の処《ところ》から一足退きますと先生が低く、
「もう藁《わら》のオムレツが出来あがった頃《ころ》だな。」と呟《つぶ》やいてテーブルの上にあった革《かわ》のカバンに白墨のかけらや講義の原稿《げんこう》やらを、みんな一緒《いっしょ》に投げ込んで、小脇《こわき》にかかえ、さっき顔を出した窓からホイッと向うの向うの黒い家をめがけて飛び出しました。そしてネネムはまちをこめた黄色の夕暮《ゆうぐれ》の中の物干台にフゥフィーボー博士が無事に
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