にし給え。まだそんなによろこぶには早い。なぜならビジテリアン諸君の主張は比較解剖《ひかくかいぼう》学の見地からして正に根底から顛覆《てんぷく》するからである。見給え諸君の歯は何枚あります。三十二枚、そうです。でその中四枚が門歯四枚が犬歯それから残りが臼歯《きゅうし》と智歯です。でそんなら門歯は何のため、門歯は食物を噛《か》み取る為《ため》臼歯は何のため植物を擦《す》り砕《くだ》くため、犬歯はそんなら何のためこれは肉を裂《さ》くためです。これでお判《わか》りでしょう。臼歯は草食動物にあり犬歯は肉食類にある。人類に混食が一番適当なことはこれで見てもわかるのです。則《すなわ》ち人類は混食しているのが一番自然なのです。ですから我々は肉食をやめるなんて考えてはいけません。」
ずいぶんみんな堪《こら》えたのでしたがあんまりその人の身振《みぶ》りが滑稽《こっけい》でおまけにいかにも小学校の二年生に教えるように云うもんですからとうとうみんなどっと吹《ふ》き出しました。私共の席から一人がすぐ出て行きました。
「只今の比較解剖学からのご説はどうも腑《ふ》に落ちないのであります。まず第一に人類の歯に混食が丁度適当だというのにいろいろ議論も起りましょうがまあこれは大体その通りとしていかがです、その次に、人類に混食が一番自然だから菜食してはいかんというのは。
自然だからその通りでいいということはよく云いますがこれは実はいいことも悪いこともあります。たとえば我々は畑をつくります。そしてある目的の作物を育てるのでありますがこの際一番自然なことは畑|一杯《いっぱい》草が生えて作物が負けてしまうことです。これは一番自然です。前論士がもし農場を経営なすった際には参観さして戴《いただ》きたい。又人間には盗《ぬす》むというような考《かんがえ》があります。これは極《きわ》めて自然のことであります。そんならそのままでいいではないか。と斯うなります。又異教派の方にも大分諸方から鉄道などでお出《い》でになった方もあるようでありますが鉄道で一番自然なこと則ちなるべく人力を加えないようにしまするならば衝突《しょうとつ》や脱線や人を轢《ひ》いたりするなどがいいようであります。そんならそれでいいではないかポイントマンだのタブレットだの面倒臭《めんどうくさ》いことやめてしまえと斯う云うことになりますがどなたもご異議はありませんか。」斯う云ってその人はさっさっと席に戻《もど》ってしまいました。すると異教席からすぐ又一人立ちました。
「私は実は宣伝書にも云って置いた通り充分《じゅうぶん》詳しく論じようと思ったがさっきからのくしゃくしゃしたつまらない議論で頭が痛くなったからほんの一言申し上げる、魚などは諸君が喰《た》べないたって死ぬ、鰯《いわし》なら人間に食われるか鯨《くじら》に呑《の》まれるかどっちかだ。つぐみなら人に食べられるか鷹《たか》にとられるかどっちかだ。そのとき鰯もつぐみもまっ黒な鯨やくちばしの尖《とが》ったキスも出来ないような鷹に食べられるよりも仁慈あるビジテリアン諸氏に泪《なみだ》をほろほろそそがれて喰べられた方がいいと云わないだろうか。それから今度は菜食だからって一向安心にならない。農業の方では害虫の学問があって薬をかけたり焼いたり潰《つぶ》したりして虫を殺すことを考えている。百姓《ひゃくしょう》はみんなそれをやる。鯨を食べるならば一|疋《ぴき》を一万人でも食べられ、又その為に百万疋の鰯を助けることになるのだが甘藍《キャベジ》を一つたべるとその為に青虫を百疋も殺していることになる。まるで諸君の考と反対のことばかり行われているのです。いかがです。」
すぐ又一人立ちました。
「私はただ一分でお答えする。第一に魚がどんなに死ぬからってそれが私たちの必ずそれを喰べる理由にはならない。又私たちが魚をたべたからって魚が喜ぶかどうかそんなこともわからない。どうせ何かに殺されるだろうからってこっちが殺してやろうと云う訳には参りません。人間が魚をとらなければ海が魚で埋《う》まってしまうという勘定《かんじょう》さえあるがそんなめのこ勘定で往《い》くもんじゃない。結局こんな間接のことまで論じていたんじゃきりがない、ただわれわれはまっすぐにどうもいけないと思うことをしないだけだ。野菜も又|犠牲《ぎせい》を払《はら》うというがそれはわれわれはよく知っている。だから物を浪費《ろうひ》しないことは大切なことなのだ。但し穀作や何かならばそんなにひどく虫を殺したりもしないのだ。極端《きょくたん》な例でだけ比較をすればいくらでもこんな変な議論は立つのです。結局我々はどうしても正しいと思うことをするだけなのだ。」
拍手が起りました。その人は壇を下りました。
異教徒席の中から赭《あか》い髪《かみ》を立てた肥《ふと》った丈《たけ》の高い人が東洋風に形容しましたら正に怒髪《どはつ》天を衝《つ》くという風で大股《おおまた》に祭壇に上って行きました。私たちは寛大《かんだい》に拍手しました。
祭司が一人出てその人と並《なら》んで紹介しました。
「このお方は神学博士ヘルシウス・マットン博士でありましてカナダ大学の教授であります。この度《たび》はシカゴ畜産組合の顧問《こもん》として本大祭に御出席を得只今より我々の主張の不備の点を御指摘《ごしてき》下さる次第であります。一寸《ちょっと》紹介申しあげます。」とこう云うのでありました。私たちは寛大に拍手しました。
マットン博士はしずかにフラスコから水を呑《の》み肩《かた》をぶるぶるっとゆすり腹を抱《かか》えそれから極《きわ》めて徐《おもむ》ろに述べ始めました。
「ビジテリアン同情派諸君。本日はこの光彩ある大祭に出席の栄を得ましたことは私の真実光栄とする処《ところ》であります。
就《つい》てはこれより約五分間私の奉ずる神学の立場より諸氏の信条を厳正に批判して見たいと思うのであります。然《しか》るに私の奉ずる神学とは然《しか》く狭隘《きょうあい》なるものではない。私の奉ずる神学はただ二言にして尽《つく》す。ただ一なるまことの神はいまし給《たま》う、それから神の摂理《せつり》ははかるべからずと斯《こ》うである。これに賛せざる諸君よ、諸君は尚《なお》かの中世の煩瑣哲学《はんさてつがく》の残骸《ざんがい》を以《もっ》てこの明るく楽しく流動|止《や》まざる一千九百二十年代の人心に臨《のぞ》まんとするのであるか。今日宗教の最大要件は簡潔である。吾人《ごじん》の哲学はこの二語を以て既《すで》に千六百万人の世界各地に散在する信徒を得た。否《いな》、凡《およ》そ神を信ずる者にしてこの二語を奉ぜざるものありや、細部の諍論《そうろん》は暫《しば》らく措《お》け、凡そ何人《なんぴと》か神を信ずるものにしてこの二語を否定するものありや。」咆哮《ほうこう》し終ってマットン博士は卓を打ち式場を見廻《みまわ》しました。満場|森《しん》として声もなかったのです。博士は続けました。
「讃《たた》うべきかな神よ。神はまことにして変り給わない、神はすべてを創《つく》り給うた。美しき自然よ。風は不断のオルガンを弾じ雲はトマトの如《ごと》く又|馬鈴薯《ばれいしょ》の如くである。路《みち》のかたわらなる草花は或《あるい》は赤く或は白い。金剛石《こんごうせき》は硬《かた》く滑石《かっせき》は軟《やわ》らかである。牧場は緑に海は青い。その牧場にはうるわしき牛|佇立《ちょりつ》し羊群|馳《か》ける。その海には青く装《よそお》える鰯も泳ぎ大《おおい》なる鯨も浮《うか》ぶ。いみじくも造られたる天地よ、自然よ。どうです諸君ご異議がありますか。」
式場はしいんとして返事がありませんでした。博士は実に得意になってかかとで一つのびあがり手で円くぐるっと環《わ》を描《えが》きました。
「その中の出来事はみな神の摂理である。総《すべ》ては総てはみこころである。誠《まこと》に畏《かしこ》き極みである。主の恵み讃うべく主のみこころは測るべからざる哉《かな》。われらこの美しき世界の中にパンを食《は》み羊毛と麻《あさ》と木綿とを着、セルリイと蕪菁《ターニップ》とを食み又|豚《ぶた》と鮭《さけ》とをたべる。すべてこれ摂理である。み恵みである。善である。どうです諸君。ご異議がありますか。」
博士は今度は少し心配そうに顔色を悪くしてそっと式場を見まわしました。それから、まるで脱兎《だっと》のような勢で結論にはいりました。
「私はシカゴ畜産組合の顧問でも何でもない。ただ神の正義を伝えんが為に茲《ここ》に来た。諸君、諸君は神を信ずる。何が故《ゆえ》に神に従わないか。何故に神の恩恵《おんけい》を拒《こば》むのであるか。速《すみやか》にこれを悔悟《かいご》して従順なる神の僕《しもべ》となれ。」
博士は最後に大咆哮を一つやって電光のように自分の席に戻《もど》りそこから横目でじっと式場を見まわしました。拍手が起りましたが同時に大笑いも起りました。というのは私たちは式場の神聖を乱すまいと思ってできるだけこらえていたのでしたがあんまり博士の議論が面白いのでしまいにはとうとうこらえ切れなくなったのでした。一番前列に居た小さな信者が立ちあがって祭司次長に何か云《い》いました。次長は大きくうなずきました。
その人はこの村の小学校の先生なようでした。落ちついて祭壇《さいだん》に立ってそれから叮寧《ていねい》にさっきのマットン博士に会釈《えしゃく》しました。博士はたしかに青くなってぶるぶる顫《ふる》えていました。その信者は次に式場全体に挨拶《あいさつ》しました。拍手《はくしゅ》は強く起りました。その人は少しニュウファウンドのなまりを入れて演説をはじめました。
「異教論難に対し私はプログラムに許されてある通り宗教演説を以て答えようと思うのであります。
ヘルシウム・マットン博士の御所説は実に三段論法の典型であります。まず博士の神学を挙げて二度これを満場に承認せしめこれを以て大前提とし次にビジテリアンがこれに背《そむ》くことを述べて小前提とし最後にビジテリアンが故に神に背《そむ》くことを断定し菜食なる小善の故に神に背くの大罪を犯《おか》すことを暗示|致《いた》されました。実に簡潔|明瞭《めいりょう》なる所論であります。
然《しか》るにこの典型的論理に私が多少疑問あることは最《もっとも》遺憾《いかん》に存ずる次第であります。
第一に博士の一九二〇年代に適するようにクリスト教旧神学中より抽出《ひきだ》されました簡潔の神学はただこの語《ことば》だけで見ますればこれいかにも適当であります。今日|此処《ここ》に集まりました人人はあながちクリスト教徒ばかりではありません、されどいずれの宗教に於《おい》てもこれを云わんと欲《ほっ》するものであります。但《ただ》しこれ敢《あえ》て博士の神学でもありません。これ最|普通《ふつう》のことであります。
第二にその神学の解釈に至《いた》っては私の最疑義を有する所であります。殊《こと》にも摂理の解釈に至っては到底《とうてい》博士は信者とは云われませぬ。摂理なる観念は敢てキリスト教に限らずこれ一般宗教通有のものでありますがその解釈を誤ること我が神学博士のごときもの孰《いず》れの宗教に於ても又実に多々あるのであります。今一度博士の所説を繰《く》り返すならば私は筆記して置きましたが、読んで見ます、その中の出来事はみな神の摂理である。総《すべ》ては総てはみこころである。誠に畏《かしこ》き極《きわ》みである。主の恵み讃うべく主のみこころは測るべからざる哉《かな》、すべてこれ摂理である。み恵みである。善である。と斯《こ》うです。これを更《さら》に約言するときは斯うなります。現象は総て神の摂理中なるが故に善なりと、まあよろしいようでありますが又ごくあぶないのであります。ここの善というのは神より見たる善であります。絶対善であります。それをもし私たちから見た善と解釈するとき始めて先刻のマットン博士の所説を生じます。現象はみな善である、私が牛
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