んな珍《めず》らしい議論の必要が従来あんまりありませんでしたので恐《おそ》らくこの計算はまだ誰《たれ》も致しますまいが計算法だけ申し上げて置きましょう。どうぞシカゴ畜産組合の事務所でゆっくり御計算を願います。即《すなわ》ち世界中の小麦と大麦米や燕麦《オート》蕪菁《かぶら》や甘藍《キャベジ》あらゆる食品の産額を発見して先《ま》ず第一にその中から各々家畜の喰べる分をさし引きます。その際あんまりびっくりなさいませんように。次にその残りの各々から蛋白質《たんぱくしつ》脂肪《しぼう》含水炭素《がんすいたんそ》の可消化量を計算してそれから各《おのおの》の発する熱量を計算して合計します。四千三百兆大カロリーとか何とか大体出て参りましょう。今度は牛羊、豚、馬、鶏|鯨《くじら》という工合に今の通りやります。合計二千三百兆大カロリーとか何とか出て来ましょう。両方合せてそれをざっと二十億で割って三百六十五で割って営養研究所の方にでも見てお貰《もら》いなさい。計算がちがっているかどうか多分ご返事なさるでしょう。
 さて、ところが只今までの議論は一向私には何でもないのでありまして第一のご質問の答弁の要点はこの次です。則《すなわ》ち論難者は、そのうち動物を食べないじゃ食料が半分に減ずるというこいつです。冗談じゃありませんぜ。一体その動物は何を食って生きていますか。空気や岩石や水を食べているのじゃないのです。牛や馬や羊は燕麦《オート》や牧草をたべる。その為《ため》に作った南瓜《かぼちゃ》や蕪菁もたべる。ごらんなさい。人間が自分のたべる穀物や野菜の代りに家畜の喰べるものを作っているのです。牛一頭を養うには八エーカーの牧草地が要《い》ります。そこに一番計算の早い小麦を作って見ましょうか。十人の人の一年の食糧《しょくりょう》が毎年とれます。牛ならどうです。一年の間に肥《ふと》る分左様百六十キログラムの牛肉で十人の人が一年生きていられますか。一人一日五十グラムですよ。親指三本の大さですよ。腹が空《へ》りはしませんか。
 よくおわかりにならないようですがもっと手短かに云いますともし人間が自然と相談して牛肉や豚肉の代りに何か損にならないものをよこして呉《く》れと云えば今よりもっとたくさんの人間が生きて行かれる位多くの喰べものを向うではよこすと斯《こ》う云うことです。但《ただ》しこれは海産物と廃物《はいぶつ》によって養う分の家畜は論外であります。然しながらそれを計算に入れても又《また》大丈夫《だいじょうぶ》です。家畜だってみんな喰べるものばかりでなく羊のように毛を貰うもの馬や牛のように労働をして貰うものいろいろあります。
 次に食料が半分になっちゃ人間も半分になる、いかにも面白《おもしろ》いですが仲々その食料が半分にならない。減るどころか事によると少し増えるかも知れません。ですから大丈夫戦争も起らなければ無期徒刑をご心配して下さらなくても大丈夫です。却《かえ》って菜食はみんなの心を平和にし互《たがい》に正しく愛し合うことができるのです。多くの宗教で肉食を禁ずることが大切の儀式《ぎしき》にはつきものになっているのでもわかりましょう。戦争どこじゃない菜食はあなた方にも永遠の平和を齎《もたら》してせっかく避暑《ひしょ》に来ていながら自働車まで雇《やと》って変な宣伝をやったり大祭へ踏《ふ》み込んで来ていやな事を云って婦人たちを卒倒させたりしなくてもいいようになります。又我々だって無期徒刑じゃない、人類の仲間からと哺乳《ほにゅう》動物組合、鳥類連盟、魚類事務所などからまで勲章《くんしょう》や感謝状を沢山贈られる訳です。どうです。おわかりになったらあなたもビジテリアンにおなりなさい。」
 すると前の論士が立ちあがりました。大へん悔悟《かいご》したような顔はしていましたが何だかどこか噴《ふ》き出したいのを堪《こら》えていたようにも見えました。しょんぼり壇《だん》に登って来て
「悔悟します。今日から私もビジテリアンになります。」と云《い》って今の青年の手をとったのでした。みんなは実にひどく拍手しました。二人は連れ立って私たちの方へ下り技師もその空いた席へ腰《こし》かけて肩《かた》ですうすう息をしていました。ところが勿論《もちろん》この事の為に異教席の憤懣《ふんまん》はひどいものでした。一人のやっぱり技師らしい男がずいぶん粗暴《そぼう》な態度で壇に昇《のぼ》りました。
「諸君、私の疑問に答えたまえ。
 動物と植物との間には確たる境界がない。パンフレットにも書いて置いた通りそれは人類の勝手に設けた分類に過ぎない。動物がかあいそうならいつの間にか植物もかあいそうになる筈だ。動物の中の原生動物と植物の中の細菌《さいきん》類とは殆《ほと》んど相密接せるものである。又動物の中にだってヒドラや珊瑚《さんご》類のように植物に似たやつもあれば植物の中にだって食虫植物もある、睡眠《すいみん》を摂《と》る植物もある、睡《ねむ》る植物などは毎晩|邪魔《じゃま》して睡らせないと枯《か》れてしまう、食虫植物には小鳥を捕《と》るのもあり人間を殺すやつさえあるぞ。殊《こと》にバクテリアなどは先頃《せんころ》まで度々《たびたび》分類学者が動物の中へ入れたんだ。今はまあ植物の中へ入れてあるがそれはほんのはずみなのだ。そんな曖昧《あいまい》な動物かも知れないものは勿論|仁慈《じんじ》に富めるビジテリアン諸氏は食べたり殺したりしないだろう。ところがどうだ諸君諸君が一寸《ちょっと》菜っ葉へ酢《す》をかけてたべる、そのとき諸君の胃袋《いぶくろ》に入って死んでしまうバクテリアの数は百億や二百億じゃ利《き》けゃしない。諸君が一寸|葡萄《ぶどう》をたべるその一|房《ふさ》にいくらの細菌や酵母《こうぼ》がついているか、もっと早いとこ諸君が町の空気を吸う一回に多いときなら一万ぐらいの細菌が殺される。そんな工合《ぐあい》で毎日生きていながら私はビジテリアンですから牛肉はたべません、なんて、牛肉はいくら喰べたって一つの命の百分の一にもならないのだ、偽善《ぎぜん》と云おうか無智と云おうかとても話にならない。本とうに動物が可あいそうなら植物を喰べたり殺したりするのも廃《よ》し給《たま》え。動物と植物とを殺すのをやめるためにまず水と食塩だけ呑《の》み給え。水はごくいい湧水《わきみず》にかぎる、それも新鮮な処《ところ》にかぎる、すこし置いたんじゃもうバクテリアが入るからね、空気は高山や森のだけ吸い給え、町のはだめだ。さあ諸君みんなどこかしんとした山の中へ行っていい空気といい水と岩塩でもたべながらこのビジテリアン大祭をやるようにし給え。ここの空気は吸っちゃいけないよ。吸っちゃいけないよ。」
 拍手は起り、笑声も起りましたが多くの人はだまって考えていました。その男はもう大得意でチラッとさっき懺悔《ざんげ》してビジテリアンになった友人の方を見て自分の席へ帰りました。すると私の愕《おどろ》いたことはこの時まで腕《うで》を拱《こまね》いてじっと座《すわ》っていた陳《ちん》氏がいきなり立って行ったことでした。支那《しな》服で祭壇に立ってはじめて私の顔を見て一寸かすかに会釈《えしゃく》しました。それから落ち着いて流暢《りゅうちょう》な英語で反駁《はんぱく》演説をはじめたのです。
「只今《ただいま》のご論旨《ろんし》は大へん面白いので私も早速空気を吸うのをやめたいと思いましたがその前に一寸一言ご返事をしたいと存じます。どうぞその間空気を吸うことをお許し下さい。
 さて只今のご論旨ではビジテリアンたるものすべからく無菌の水と岩石ぐらいを喰べて海抜《かいばつ》二千尺以上ぐらいの高い処に生活すべしというのでありましたが、なるほど私共の中には一酸化炭素と水とから砂糖を合成する事をしきりに研究している人もあります。けれども茲《ここ》ではまず生物連続が面白かったようですからそれを色々応用して見ます。則ち人類から他の哺乳類鳥類|爬虫《はちゅう》類魚類それから節足動物とか軟体《なんたい》動物とか乃至《ないし》原生動物それから一転して植物、の細菌類、それから多細胞《たさいぼう》の羊歯《しだ》類|顕花《けんか》植物と斯《こ》う連続しているからもし動物がかあいそうなら生物みんな可哀《かあい》そうになれ、顕花植物なども食べても切ってもいかんというのですが、連続をしているものはまだいろいろあります。仮令《たとえ》ば人間の一生は連続している、嬰児《えいじ》期幼児期少年少女期青年処女期壮年期老年期とまあ斯うでしょう、ところが実はこれは便宜《べんぎ》上勝手に分類したので実は連続しているはっきりした堺《さかい》はない、ですから、若《も》し四十になる人が代議士に出るならば必ず生れたばかりの嬰児も代議士を志願してフロックコートを着て政見を発表したり燕尾服《えんびふく》を着て交際したりしなければいけない、又小学校の一年生にエービースィーを教えるなら大学校でもなぜ文学より見たる理論化学とか、相対性学説の難点とかそんなことばかりやってエービースィーを教えないか、と斯う云うことになります。或《あるい》は他《ほか》の例を以《もっ》てするならば元来変態心理と正常な心理とは連続的でありますから人類は須《すべから》く瘋癲《ふうてん》病院を解放するか或はみんな瘋癲病院に入らなければいけないと斯うなるのであります。この変てこな議論が一見菜食にだけ適用するように思われるのはそれは思う人がまだこの問題を真剣に考え真実に実行しなかった証拠《しょうこ》であります。斯んなことはよくあるのです。
 いくら連続していてもその両端《りょうたん》では大分ちがっています。太陽スペクトルの七色をごらんなさい。これなどは両端に赤と菫《すみれ》とがありまん中に黄があります。ちがっていますからどうも仕方ないのです。植物に対してだってそれをあわれみいたましく思うことは勿論です。印度《インド》の聖者たちは実際|故《ゆえ》なく草を伐《き》り花をふむことも戒《いまし》めました。然《しか》しながらこれは牛を殺すのと大へんな距離《きょり》がある。それは常識でわかります。人間から身体の構造が遠ざかるに従ってだんだん意識が薄《うす》くなるかどうかそれは少しもわかりませんがとにかくわれわれは植物を食べるときそんなにひどく煩悶《はんもん》しません。そこはそれ相応にうまくできているのであります。バクテリヤの事が大へんやかましいようでしたが一体バクテリヤがそこにあるのを殺すというようなことは馬を殺すというようなのと非常なちがいです。バクテリヤは次から次と分裂《ぶんれつ》し死滅《しめつ》しまるで速《すみや》かに速かに変化してるのです。それを殺すと云ったところで馬を殺すというようのとは大分ちがいます。又バクテリヤの意識だってよくはわかりませんがとにかく私共が生れつきバクテリヤについては殺すとかかあいそうだとかあんまりひどく考えない。それでいいのです。又仕方ないのです。但《ただ》しこれも人類の文化が進み人類の感情が進んだときどう変るかそれはわかりません。印度の聖者たちは濾《こ》さない水は呑みません。普通《ふつう》の布の水濾しでは原生動物は通りますまいがバクテリヤは通りましょう。まあこれらについてはいくら理論上何と云われても私たちにそう思えないとお答え致《いた》すより仕方ありません。やがて理論的にも又その通り証明されるにちがいありません。私の国の孟子《メンシアス》と云う人は徳の高い人は家畜《かちく》の殺される処又料理される処を見ないと云いました。ごく穏健《おんけん》な考であります。自然はそんなおとしあなみたいなことはしませんから。私共は私共に具《そな》わった感官の状態私共をめぐった条件に於《おい》て菜食をしたいと斯《こ》う云うのであります。ここに於て私は敢《あえ》て高山に遁《に》げません。」陳氏は嵐《あらし》のような拍手《はくしゅ》と一緒《いっしょ》に私の処へ帰って来ました。私が陳氏に立って敬意を示している間に演壇にはもう次の論士が立っていました。
「諸君、しずか
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