の神学でもありません。これ最|普通《ふつう》のことであります。
 第二にその神学の解釈に至《いた》っては私の最疑義を有する所であります。殊《こと》にも摂理の解釈に至っては到底《とうてい》博士は信者とは云われませぬ。摂理なる観念は敢てキリスト教に限らずこれ一般宗教通有のものでありますがその解釈を誤ること我が神学博士のごときもの孰《いず》れの宗教に於ても又実に多々あるのであります。今一度博士の所説を繰《く》り返すならば私は筆記して置きましたが、読んで見ます、その中の出来事はみな神の摂理である。総《すべ》ては総てはみこころである。誠に畏《かしこ》き極《きわ》みである。主の恵み讃うべく主のみこころは測るべからざる哉《かな》、すべてこれ摂理である。み恵みである。善である。と斯《こ》うです。これを更《さら》に約言するときは斯うなります。現象は総て神の摂理中なるが故に善なりと、まあよろしいようでありますが又ごくあぶないのであります。ここの善というのは神より見たる善であります。絶対善であります。それをもし私たちから見た善と解釈するとき始めて先刻のマットン博士の所説を生じます。現象はみな善である、私が牛
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