れて仏教を信ずる所以《ゆえん》はどうしても仏教が深遠だからであると。クリスト教信者諸氏、処を換《か》えて次の如き命題を諸氏は許容するか、仏教国に生れてクリスト教を信ずる所以はどうしてもクリスト教が深遠だからであると。諸君はその軽薄《けいはく》に不快を禁じ得ないだろう。私から云うならば前論士の如きにいずれの教理が深遠なるや見当も何もつくものではないのである。次に前論士は吾等《われら》の世界に於ける善について述べられた。この世界に行わるる吾等の善なるものは畢竟《ひっきょう》根のない木であると、これは恐《おそ》らくは如来のみ力を受けずして善はあることないという意味であろう私もそう信ずる。その次にこれは斯うなればよろしいとかこれはこうでなければいけないとかそんなものは何にもならない、とこれも私は如来のみ旨によらずして我等のみの計らいにてはそうであると思う。前論士も又その意味で云われたようである。但しただ速《すみや》かにかの西方の覚者に帰せよと、これは仏教の中に於て色々|諍論《そうろん》のある処である。今はこれを避ける。ただ我等仏教徒はまず釈尊の所説の記録仏経に従うということだけを覚悟《かくご》しよう。仏経に従うならば五種浄肉は修業未熟のものにのみ許されたこと楞迦経《りょうがきょう》に明かである。これとても最後|涅槃経《ねはんぎょう》中には今より以後|汝等《なんじら》仏弟子の肉を食うことを許されずとされている。その五種浄肉とても前論士の云われた如き余り残忍なる行為《こうい》によらずしてというごとき簡単なるものではない。仏教中の様々の食制に関する考《かんがえ》は他に誰《たれ》か述べられる予定があったようであるから茲《ここ》にはこれを略する。但し最後に前論士は釈尊の終りに受けられた供養《くよう》が豚肉であるという、何という間違《まちが》いであるか豚肉ではない蕈《きのこ》の一種である。サンスクリットの両音相類似する所から軽卒《けいそつ》にもあのような誤りを見たのである。茲に於《おい》てか私は前論士の結論を以て前論士に酬《こた》える。仏教徒諸君、釈迦を見ならえ、釈迦の相似形となれ、釈迦の諸徳をみなその二万分一、五万分一、或《あるい》は二十万分一の縮尺《スケール》に於てこれを習修せよ。ああこの語気の軽薄《けいはく》なることよ。私はこれを自ら言いて更《さら》にそを口にした事を恥《は》じる
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