。
私は次に宗教の精神より肉食しないことの当然を論じようと思う。キリスト教の精神は一言にして云わば神の愛であろう。神天地をつくり給《たも》うたとのつくるというような語《ことば》は要するにわれわれに対する一つの譬喩《ひゆ》である、表現である。マットン博士のように誤った摂理《せつり》論を出さなくてもよろしい。畢竟は愛である。あらゆる生物に対する愛である。どうしてそれを殺して食べることが当然のことであろう。
仏教の精神によるならば慈悲《じひ》である、如来の慈悲である完全なる智慧《ちえ》を具《そな》えたる愛である、仏教の出発点は一切《いっさい》の生物がこのように苦しくこのようにかなしい我等とこれら一切の生物と諸共《もろとも》にこの苦の状態を離れたいと斯《こ》う云うのである。その生物とは何であるか、そのことあまりに深刻にして諸氏の胸を傷つけるであろうがこれ真理であるから避け得ない、率直《そっちょく》に述べようと思う。総《すべ》ての生物はみな無量の劫《カルパ》の昔から流転《るてん》に流転を重ねて来た。流転の階段は大きく分けて九つある。われらはまのあたりその二つを見る。一つのたましいはある時は人を感ずる。ある時は畜生《ちくしょう》、則《すなわ》ち我等が呼ぶ所の動物中に生れる。ある時は天上にも生れる。その間にはいろいろの他のたましいと近づいたり離れたりする。則ち友人や恋人《こいびと》や兄弟や親子やである。それらが互《たがい》にはなれ又生を隔《へだ》ててはもうお互に見知らない。無限の間には無限の組合せが可能である。だから我々のまわりの生物はみな永い間の親子兄弟である。異教の諸氏はこの考をあまり真剣で恐ろしいと思うだろう。恐ろしいまでこの世界は真剣な世界なのだ。私はこれだけを述べようと思ったのである。」
私は会釈《えしゃく》して壇《だん》を下り拍手《はくしゅ》もかなり起りました。異教徒席の神学博士たちももうこれ以上論じたいような景色も見えませんでした。けれども異教徒席の中にだってみんな神学博士ばかりではありませんでした。丁度ヘッケルのような風をした眉間《みけん》に大きな傷あとのある人が俄《にわ》かに椅子《いす》を立ちました。私は今朝のパンフレットから考えてきっとあれは動物学者だろうと考えたのです。
その人はまるで顔をまっ赤にしてせかせかと祭壇にのぼりました。我々は寛大《かんだい
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