シグナルとシグナレス
宮沢賢治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)赤眼《あかめ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)七、八|里《り》
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「ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
さそりの赤眼《あかめ》が 見えたころ、
四時から今朝《けさ》も やって来た。
遠野《とおの》の盆地《ぼんち》は まっくらで、
つめたい水の 声ばかり。
ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
凍《こご》えた砂利《じゃり》に 湯《ゆ》げを吐《は》き、
火花を闇《やみ》に まきながら、
蛇紋岩《サアペンテイン》の 崖《がけ》に来て、
やっと東が 燃《も》えだした。
ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
鳥がなきだし 木は光り、
青々川は ながれたが、
丘《おか》もはざまも いちめんに、
まぶしい霜《しも》を 載《の》せていた。
ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
やっぱりかけると あったかだ、
僕《ぼく》はほうほう 汗《あせ》が出る。
もう七、八|里《り》 はせたいな、
今日も一日 霜ぐもり。
ガタンガタン、ギー、シュウシュウ」
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軽便鉄道《けいべんてつどう》の東からの一番|列車《れっしゃ》が少しあわてたように、こう歌いながらやって来てとまりました。機関車《きかんしゃ》の下からは、力のない湯《ゆ》げが逃《に》げ出して行き、ほそ長いおかしな形の煙突《えんとつ》からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。
そこで軽便鉄道づきの電信柱《でんしんばしら》どもは、やっと安心《あんしん》したように、ぶんぶんとうなり、シグナルの柱はかたんと白い腕木《うでき》を上げました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。
シグナレスはほっと小さなため息《いき》をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞《しま》になっていっぱいに充《み》ち、それはつめたい白光《しろびかり》を凍《こお》った地面《じめん》に降《ふ》らせながら、しずかに東に流《なが》れていたのです。
シグナレスはじっとその雲の行《ゆ》く方《え》をながめました。それからやさしい腕木を思い切りそっちの方へ延《の》ばしながら、ほんのかすかに、ひとりごとを言《い》いました。
「今朝《けさ》は伯母《おば》さんたちもきっとこっちの方を見ていらっしゃるわ」
シグナレスはいつまでもいつまでも、そっちに気をとられておりました。
「カタン」
うしろの方のしずかな空で、いきなり音がしましたのでシグナレスは急《いそ》いでそっちをふり向《む》きました。ずうっと積《つ》まれた黒い枕木《まくらぎ》の向こうに、あの立派《りっぱ》な本線《ほんせん》のシグナル柱《ばしら》が、今はるかの南から、かがやく白けむりをあげてやって来る列車《れっしゃ》を迎《むか》えるために、その上の硬《かた》い腕《うで》を下げたところでした。
「お早う今朝は暖《あたた》かですね」本線のシグナル柱は、キチンと兵隊《へいたい》のように立ちながら、いやにまじめくさってあいさつしました。
「お早うございます」シグナレスはふし目になって、声を落《お》として答《こた》えました。
「若《わか》さま、いけません。これからはあんなものにやたらに声を、おかけなさらないようにねがいます」本線のシグナルに夜電気を送《おく》る太《ふと》い電信柱《でんしんばしら》がさももったいぶって申《もう》しました。
本線のシグナルはきまり悪《わる》そうに、もじもじしてだまってしまいました。気の弱いシグナレスはまるでもう消《き》えてしまうか飛《と》んでしまうかしたいと思いました。けれどもどうにもしかたがありませんでしたから、やっぱりじっと立っていたのです。
雲の縞《しま》は薄《うす》い琥珀《こはく》の板《いた》のようにうるみ、かすかなかすかな日光が降《ふ》って来ましたので、本線シグナルつきの電信柱はうれしがって、向こうの野原《のはら》を行く小さな荷馬車《にばしゃ》を見ながら低《ひく》い調子《ちょうし》はずれの歌をやりました。
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「ゴゴン、ゴーゴー、
うすい雲から
酒《さけ》が降《ふ》りだす、
酒の中から
霜《しも》がながれる。
ゴゴン、ゴーゴー、
ゴゴン、ゴーゴー、
霜がとければ、
つちはまっくろ。
馬はふんごみ、
人もぺちゃぺちゃ。
ゴゴン、ゴーゴー」
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それからもっともっとつづけざまに、わけのわからないことを歌いました。
その間に本線《ほんせん》のシグナル柱《ばしら》が、そっと西風にたのんでこう言《い》いました。
「どうか気にかけないでください。こいつはもうまるで野蛮《やばん》なんです。礼式《れいしき》も何も知らないのです。実際《じっさい》私はいつでも困《こま》ってるんですよ」
軽便鉄道《けいべんてつどう》のシグナレスは、まるでどぎまぎしてうつむきながら低《ひく》く、
「あら、そんなことございませんわ」と言《い》いましたがなにぶん風下《かざしも》でしたから本線《ほんせん》のシグナルまで聞こえませんでした。
「許《ゆる》してくださるんですか。本当を言ったら、僕《ぼく》なんかあなたに怒《おこ》られたら生きているかいもないんですからね」
「あらあら、そんなこと」軽便鉄道の木でつくったシグナレスは、まるで困《こま》ったというように肩《かた》をすぼめましたが、実《じつ》はその少しうつむいた顔は、うれしさにぽっと白光《しろびかり》を出していました。
「シグナレスさん、どうかまじめで聞いてください。僕あなたのためなら、次《つぎ》の十時の汽車が来る時|腕《うで》を下げないで、じっとがんばり通してでも見せますよ」わずかばかりヒュウヒュウ言《い》っていた風が、この時ぴたりとやみました。
「あら、そんな事《こと》いけませんわ」
「もちろんいけないですよ。汽車が来る時、腕を下げないでがんばるなんて、そんなことあなたのためにも僕のためにもならないから僕はやりはしませんよ。けれどもそんなことでもしようと言《い》うんです。僕あなたくらい大事《だいじ》なものは世界中《せかいじゅう》ないんです。どうか僕を愛《あい》してください」
シグナレスは、じっと下の方を見て黙《だま》って立っていました。本線シグナルつきのせいの低《ひく》い電信柱《でんしんばしら》は、まだでたらめの歌をやっています。
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「ゴゴンゴーゴー、
やまのいわやで、
熊《くま》が火をたき、
あまりけむくて、
ほらを逃《に》げ出す。ゴゴンゴー、
田螺《にし》はのろのろ。
うう、田螺はのろのろ。
田螺のしゃっぽは、
羅紗《ラシャ》の上等《じょうとう》、ゴゴンゴーゴー」
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本線《ほんせん》のシグナルはせっかちでしたから、シグナレスの返事《へんじ》のないのに、まるであわててしまいました。
「シグナレスさん、あなたはお返事をしてくださらないんですか。ああ僕《ぼく》はもうまるでくらやみだ。目の前がまるでまっ黒な淵《ふち》のようだ。ああ雷《かみなり》が落《お》ちて来て、一ぺんに僕のからだをくだけ。足もとから噴火《ふんか》が起《お》こって、僕を空の遠くにほうりなげろ。もうなにもかもみんなおしまいだ。雷が落ちて来て一ぺんに僕のからだを砕《くだ》け。足もと……」
「いや若様《わかさま》、雷が参《まい》りました節《せつ》は手前《てまえ》一身《いっしん》におんわざわいをちょうだいいたします。どうかご安心《あんしん》をねがいとう存《ぞん》じます」
シグナルつきの電信柱《でんしんばしら》が、いつかでたらめの歌をやめて、頭の上のはりがねの槍《やり》をぴんと立てながら眼《め》をパチパチさせていました。
「えい。お前なんか何を言《い》うんだ。僕《ぼく》はそれどこじゃないんだ」
「それはまたどうしたことでござりまする。ちょっとやつがれまでお申《もう》し聞《き》けになりとう存《ぞん》じます」
「いいよ、お前はだまっておいで」
シグナルは高く叫《さけ》びました。しかしシグナルも、もうだまってしまいました。雲がだんだん薄《うす》くなって柔《やわ》らかな陽《ひ》が射《さ》して参《まい》りました。
五日の月が、西の山脈《さんみゃく》の上の黒い横雲《よこぐも》から、もう一ぺん顔を出して、山に沈《しず》む前のほんのしばらくを、鈍《にぶ》い鉛《なまり》のような光で、そこらをいっぱいにしました。冬がれの木や、つみ重《かさ》ねられた黒い枕木《まくらぎ》はもちろんのこと、電信柱《でんしんばしら》までみんな眠《ねむ》ってしまいました。遠くの遠くの風の音か水の音がごうと鳴るだけです。
「ああ、僕《ぼく》はもう生きてるかいもないんだ。汽車が来るたびに腕《うで》を下げたり、青い眼鏡《めがね》をかけたりいったいなんのためにこんなことをするんだ。もうなんにもおもしろくない。ああ死《し》のう。けれどもどうして死ぬ。やっぱり雷《かみなり》か噴火《ふんか》だ」
本線《ほんせん》のシグナルは、今夜も眠《ねむ》られませんでした。非常《ひじょう》なはんもんでした。けれどもそれはシグナルばかりではありません。枕木の向こうに青白くしょんぼり立って、赤い火をかかげている軽便鉄道《けいべんてつどう》のシグナル、すなわちシグナレスとても全《まった》くそのとおりでした。
「ああ、シグナルさんもあんまりだわ、あたしが言《い》えないでお返事《へんじ》もできないのを、すぐあんなに怒《おこ》っておしまいになるなんて。あたしもう何もかもみんなおしまいだわ。おお神様《かみさま》、シグナルさんに雷《かみなり》を落《お》とす時、いっしょに私にもお落としくださいませ」
こう言《い》って、しきりに星空に祈《いの》っているのでした。ところがその声が、かすかにシグナルの耳にはいりました。シグナルはぎょっとしたように胸《むね》を張《は》って、しばらく考えていましたが、やがてガタガタふるえだしました。
ふるえながら言いました。
「シグナレスさん。あなたは何《なに》を祈っておられますか」
「あたし存《ぞん》じませんわ」シグナレスは声を落として答えました。
「シグナレスさん、それはあんまりひどいお言葉《ことば》でしょう。僕《ぼく》はもう今すぐでもお雷《らい》さんにつぶされて、または噴火《ふんか》を足もとから引っぱり出して、またはいさぎよく風に倒《たお》されて、またはノアの洪水《こうずい》をひっかぶって、死《し》んでしまおうと言うんですよ。それだのに、あなたはちっとも同情《どうじょう》してくださらないんですか」
「あら、その噴火や洪水《こうずい》を。あたしのお祈りはそれよ」シグナレスは思い切って言いました。シグナルはもううれしくて、うれしくて、なおさらガタガタガタガタふるえました。
その赤い眼鏡《めがね》もゆれたのです。
「シグナレスさん、なぜあなたは死ななけぁならないんですか。ね。僕《ぼく》へお話しください。ね。僕へお話しください。きっと、僕はそのいけないやつを追《お》っぱらってしまいますから、いったいどうしたんですね」
「だって、あなたがあんなにお怒《おこ》りなさるんですもの」
「ふふん。ああ、そのことですか。ふん。いいえ。そのことならばご心配《しんぱい》ありません。大丈夫《だいじょうぶ》です。僕ちっとも怒ってなんかいはしませんからね。僕、もうあなたのためなら、眼鏡《めがね》をみんな取《と》られて、腕《うで》をみんなひっぱなされて、それから沼《ぬま》の底《そこ》へたたき込《こ》まれたって、あなたをうらみはしませんよ」
「あら、ほんとう。うれしいわ」
「だから僕を愛《あい》してください。さあ僕を愛するって言《い》ってください」
五日のお月さまは、この時雲と山の端《
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