は》とのちょうどまん中にいました。シグナルはもうまるで顔色を変《か》えて灰色《はいいろ》の幽霊《ゆうれい》みたいになって言いました。
「またあなたはだまってしまったんですね。やっぱり僕がきらいなんでしょう。もういいや、どうせ僕なんか噴火《ふんか》か洪水《こうずい》か風かにやられるにきまってるんだ」
「あら、ちがいますわ」
「そんならどうですどうです、どうです」
「あたし、もう大昔《おおむかし》からあなたのことばかり考えていましたわ」
「本当ですか、本当ですか、本当ですか」
「ええ」
「そんならいいでしょう。結婚《けっこん》の約束《やくそく》をしてください」
「でも」
「でもなんですか、僕《ぼく》たちは春になったら燕《つばめ》にたのんで、みんなにも知らせて結婚《けっこん》の式《しき》をあげましょう。どうか約束《やくそく》してください」
「だってあたしはこんなつまらないんですわ」
「わかってますよ。僕にはそのつまらないところが尊《とうと》いんです」
 すると、さあ、シグナレスはあらんかぎりの勇気《ゆうき》を出して言《い》い出しました。
「でもあなたは金でできてるでしょう。新式でしょう。赤青眼鏡《あかあおめがね》を二組みも持《も》っていらっしゃるわ、夜も電燈《でんとう》でしょう。あたしは夜だってランプですわ、眼鏡もただ一つきり、それに木ですわ」
「わかってますよ。だから僕はすきなんです」
「あら、ほんとう。うれしいわ。あたしお約束《やくそく》するわ」
「え、ありがとう、うれしいなあ、僕もお約束しますよ。あなたはきっと、私の未来《みらい》の妻《つま》だ」
「ええ、そうよ、あたし決《けっ》して変《か》わらないわ」
「結婚指環《エンゲージリング》をあげますよ、そら、ね、あすこの四つならんだ青い星ね」
「ええ」
「あのいちばん下の脚《あし》もとに小さな環《わ》が見えるでしょう、環状星雲《フィッシュマウスネビュラ》ですよ。あの光の環ね、あれを受《う》け取《と》ってください。僕のまごころです」
「ええ。ありがとう、いただきますわ」
「ワッハッハ。大笑《おおわら》いだ。うまくやってやがるぜ」
 突然《とつぜん》向《む》こうのまっ黒な倉庫《そうこ》が、空にもはばかるような声でどなりました。二人はまるでしんとなってしまいました。
 ところが倉庫がまた言《い》いました。
「いや心配《しんぱい》しなさんな。この事《こと》は決《けっ》してほかへはもらしませんぞ。わしがしっかりのみ込《こ》みました」
 その時です、お月さまがカブンと山へおはいりになって、あたりがポカッと、うすぐらくなったのは。
 今は風があんまり強いので電信柱《でんしんばしら》どもは、本線《ほんせん》の方も、軽便鉄道《けいべんてつどう》の方もまるで気が気でなく、ぐうん ぐうん ひゅうひゅう と独楽《こま》のようにうなっておりました。それでも空はまっ青《さお》に晴れていました。
 本線シグナルつきの太《ふと》っちょの電信柱も、もうでたらめの歌をやるどころの話ではありません。できるだけからだをちぢめて眼《め》を細《ほそ》くして、ひとなみに、ブウウ、ブウウとうなってごまかしておりました。
 シグナレスはこの時、東のぐらぐらするくらい強い青びかりの中を、びっこをひくようにして走って行く雲を見ておりましたが、それからチラッとシグナルの方を見ました。シグナルは、今日は巡査《じゅんさ》のようにしゃんと立っていましたが、風が強くて太っちょの電柱《でんちゅう》に聞こえないのをいいことにして、シグナレスに話しかけました。
「どうもひどい風ですね。あなた頭がほてって痛《いた》みはしませんか。どうも僕《ぼく》は少しくらくらしますね。いろいろお話ししますから、あなたただ頭をふってうなずいてだけいてください。どうせお返事《へんじ》をしたって僕《ぼく》のところへ届《とど》きはしませんから、それから僕の話でおもしろくないことがあったら横《よこ》の方に頭を振《ふ》ってください。これは、本当は、ヨーロッパの方のやり方なんですよ。向《む》こうでは、僕たちのように仲《なか》のいいものがほかの人に知れないようにお話をする時は、みんなこうするんですよ。僕それを向こうの雑誌《ざっし》で見たんです。ね、あの倉庫《そうこ》のやつめ、おかしなやつですね、いきなり僕たちの話してるところへ口を出して、引き受《う》けたのなんのって言《い》うんですもの、あいつはずいぶん太《ふと》ってますね、今日も眼《め》をパチパチやらかしてますよ、僕のあなたに物を言ってるのはわかっていても、何を言ってるのか風でいっこう聞こえないんですよ、けれども全体《ぜんたい》、あなたに聞こえてるんですか、聞こえてるなら頭を振ってください、ええそう、聞こえるでしょうね。僕たち早く結婚《けっこん》したいもんですね、早く春になれぁいいんですね、僕のところのぶっきりこに少しも知らせないでおきましょう。そしておいて、いきなり、ウヘン! ああ風でのどがぜいぜいする。ああひどい。ちょっとお話をやめますよ。僕のどが痛《いた》くなったんです。わかりましたか、じゃちょっとさようなら」
 それからシグナルは、ううううと言いながら眼をぱちぱちさせて、しばらくの間だまっていました。
 シグナレスもおとなしく、シグナルののどのなおるのを待《ま》っていました。電信柱《でんしんばしら》どもはブンブンゴンゴンと鳴り、風はひゅうひゅうとやりました。
 シグナルはつばをのみこんだり、ええ、ええとせきばらいをしたりしていましたが、やっとのどの痛《いた》いのがなおったらしく、もう一ぺんシグナレスに話しかけました。けれどもこの時は、風がまるで熊《くま》のように吼《ほ》え、まわりの電信柱《でんしんばしら》どもは、山いっぱいの蜂《はち》の巣《す》をいっぺんにこわしでもしたように、ぐゎんぐゎんとうなっていましたので、せっかくのその声も、半分ばかりしかシグナレスに届《とど》きませんでした。
「ね、僕《ぼく》はもうあなたのためなら、次《つぎ》の汽車の来る時、がんばって腕《うで》を下げないことでも、なんでもするんですからね、わかったでしょう。あなたもそのくらいの決心《けっしん》はあるでしょうね。あなたはほんとうに美《うつく》しいんです、ね、世界《せかい》の中《うち》にだっておれたちの仲間《なかま》はいくらもあるんでしょう。その半分はまあ女の人でしょうがねえ、その中であなたはいちばん美しいんです。もっともほかの女の人僕よく知らないんですけれどね、きっとそうだと思うんですよ、どうです聞こえますか。僕たちのまわりにいるやつはみんなばかですね、のろまですね、僕のとこのぶっきりこが僕が何をあなたに言ってるのかと思って、そらごらんなさい、一生けん命《めい》、目をパチパチやってますよ、こいつときたら全《まった》くチョークよりも形がわるいんですからね、そら、こんどはあんなに口を曲《ま》げていますよ。あきれたばかですねえ、僕の話聞こえますか、僕の……」
「若《わか》さま、さっきから何をべちゃべちゃ言《い》っていらっしゃるのです。しかもシグナレス風情《ふぜい》と、いったい何をにやけていらっしゃるんです」
 いきなり本線《ほんせん》シグナルつきの電信柱《でんしんばしら》が、むしゃくしゃまぎれに、ごうごうの音の中を途方《とほう》もない声でどなったもんですから、シグナルはもちろんシグナレスも、まっ青《さお》になってぴたっとこっちへ曲げていたからだを、まっすぐに直《なお》しました。
「若《わか》さま、さあおっしゃい。役目《やくめ》として承《うけたまわ》らなければなりません」
 シグナルは、やっと元気を取り直《なお》しました。そしてどうせ風のために何を言《い》っても同じことなのをいいことにして、
「ばか、僕《ぼく》はシグナレスさんと結婚《けっこん》して幸福《こうふく》になって、それからお前にチョークのお嫁《よめ》さんをくれてやるよ」と、こうまじめな顔で言ったのでした。その声は風下《かざしも》のシグナレスにはすぐ聞こえましたので、シグナレスはこわいながら思わず笑《わら》ってしまいました。さあそれを見た本線《ほんせん》シグナルつきの電信柱の怒《おこ》りようと言ったらありません。さっそくブルブルッとふるえあがり、青白く逆上《のぼ》せてしまい唇《くちびる》をきっとかみながらすぐひどく手をまわして、すなわち一ぺん東京まで手をまわして風下《かざしも》にいる軽便鉄道《けいべんてつどう》の電信柱に、シグナルとシグナレスの対話《たいわ》がいったいなんだったか、今シグナレスが笑ったことは、どんなことだったかたずねてやりました。
 ああ、シグナルは一生の失策《しっさく》をしたのでした。シグナレスよりも少し風下にすてきに耳のいい長い長い電信柱がいて、知らん顔をしてすまして空の方を見ながらさっきからの話をみんな聞いていたのです。そこでさっそく、それを東京を経《へ》て本線シグナルつきの電信柱に返事《へんじ》をしてやりました。本線《ほんせん》シグナルつきの電信柱《でんしんばしら》はキリキリ歯《は》がみをしながら聞いていましたが、すっかり聞いてしまうと、さあ、まるでばかのようになってどなりました。
「くそっ、えいっ。いまいましい。あんまりだ。犬畜生《いぬちくしょう》、あんまりだ。犬畜生、ええ、若《わか》さま、わたしだって男ですぜ。こんなにひどくばかにされてだまっているとお考えですか。結婚《けっこん》だなんてやれるならやってごらんなさい。電信柱の仲間《なかま》はもうみんな反対《はんたい》です。シグナル柱の人たちだって鉄道長《てつどうちょう》の命令《めいれい》にそむけるもんですか。そして鉄道長はわたしの叔父《おじ》ですぜ。結婚なりなんなりやってごらんなさい。えい、犬畜生《いぬちくしょう》め、えい」
 本線シグナルつきの電信柱は、すぐ四方に電報《でんぽう》をかけました。それからしばらく顔色を変《か》えて、みんなの返事《へんじ》をきいていました。確《たし》かにみんなから反対《はんたい》の約束《やくそく》をもらったらしいのでした。それからきっと叔父のその鉄道長とかにもうまく頼《たの》んだにちがいありません。シグナルもシグナレスも、あまりのことに今さらポカンとしてあきれていました。本線シグナルつきの電信柱は、すっかり反対の準備《じゅんび》ができると、こんどは急《きゅう》に泣《な》き声で言《い》いました。
「あああ、八年の間、夜ひる寝《ね》ないでめんどうを見てやってそのお礼《れい》がこれか。ああ情《なさ》けない、もう世の中はみだれてしまった。ああもうおしまいだ。なさけない、メリケン国のエジソンさまもこのあさましい世界《せかい》をお見すてなされたか。オンオンオンオン、ゴゴンゴーゴーゴゴンゴー」
 風はますます吹《ふ》きつのり、西の空が変《へん》に白くぼんやりなって、どうもあやしいと思っているうちに、チラチラチラチラとうとう雪がやって参《まい》りました。
 シグナルは力を落《お》として青白く立ち、そっとよこ眼《め》でやさしいシグナレスの方を見ました。シグナレスはしくしく泣《な》きながら、ちょうどやって来る二時の汽車を迎《むか》えるためにしょんぼりと腕《うで》をさげ、そのいじらしいなで肩《がた》はかすかにかすかにふるえておりました。空では風がフイウ、涙《なみだ》を知らない電信柱どもはゴゴンゴーゴーゴゴンゴーゴー。

 さあ今度《こんど》は夜ですよ。シグナルはしょんぼり立っておりました。
 月の光が青白く雲を照《て》らしています。雲はこうこうと光ります。そこにはすきとおって小さな紅火《べにび》や青の火をうかべました。しいんとしています。山脈《さんみゃく》は若《わか》い白熊《しろくま》の貴族《きぞく》の屍体《したい》のようにしずかに白く横《よこ》たわり、遠くの遠くを、ひるまの風のなごりがヒュウと鳴《な》って通りました。それでもじつにしずかです。黒い枕木《まくらぎ》はみな眠《ねむ》り、赤の三角《さんかく
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