サガレンと八月
宮沢賢治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)吹《ふ》いて
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)何|冊《さつ》
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「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」
西の山地から吹《ふ》いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの上着《うわぎ》をぱたぱたかすめながら何べんも通って行きました。
「おれは内地の農林《のうりん》学校の助手《じょしゅ》だよ、だから標本《ひょうほん》を集《あつ》めに来たんだい。」私はだんだん雲の消《き》えて青ぞらの出て来る空を見ながら、威張《いば》ってそう云《い》いましたらもうその風は海の青い暗《くら》い波《なみ》の上に行っていていまの返事《へんじ》も聞かないようあとからあとから別《べつ》の風が来て勝手《かって》に叫《さけ》んで行きました。
「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、しらべに来たの、何かしらべに来たの。」もう相手《あいて》にならないと思いながら私はだまって海の方を見ていましたら風は親切《しんせつ》にまた叫ぶのでした。
「何してるの、何を考えてるの、何か見ているの、何かしらべに来たの。」私はそこでとうとうまた言ってしまいました。
「そんなにどんどん行っちまわないでせっかくひとへ物《もの》を訊《き》いたらしばらく返事《へんじ》を待《ま》っていたらいいじゃないか。」けれどもそれもまた風がみんな一語ずつ切れ切れに持《も》って行ってしまいました。もうほんとうにだめなやつだ、はなしにもなんにもなったもんじゃない、と私がぷいっと歩き出そうとしたときでした。向《むこ》うの海が孔雀石《くじゃくいし》いろと暗《くら》い藍《あい》いろと縞《しま》になっているその堺《さかい》のあたりでどうもすきとおった風どもが波のために少しゆれながらぐるっと集《あつま》って私からとって行ったきれぎれの語《ことば》を丁度《ちょうど》ぼろぼろになった地図を組み合せる時のように息《いき》をこらしてじっと見つめながらいろいろにはぎ合せているのをちらっと私は見ました。
また私はそこから風どもが送《おく》ってよこした安心《あんしん》のような気持《きもち》も感《かん》じて受《う》け取《と》りました。そしたら丁度あしもとの砂《すな》に小さな白い貝殻《かいがら》に円《まる》い小さな孔《あな》があいて落《お》ちているのを見ました。つめたがいにやられたのだな朝からこんないい標本《ひょうほん》がとれるならひるすぎは十字狐《じゅうじぎつね》だってとれるにちがいないと私は思いながらそれを拾《ひろ》って雑嚢《ざつのう》に入れたのでした。そしたら俄《にわ》かに波《なみ》の音が強くなってそれは斯《こ》う云《い》ったように聞こえました。「貝殻《かいがら》なんぞ何にするんだ。そんな小さな貝殻なんど何にするんだ、何にするんだ。」
「おれは学校の助手《じょしゅ》だからさ。」私はついまたつりこまれてどなりました。するとすぐ私の足もとから引いて行った潮水《しおみず》はまた巻《ま》き返《かえ》して波になってさっとしぶきをあげながらまた叫《さけ》びました。「何にするんだ、何にするんだ、貝殻《かいがら》なんぞ何にするんだ。」私はむっとしてしまいました。
「あんまり訳《わけ》がわからないな、ものと云《い》うものはそんなに何でもかでも何かにしなけぁいけないもんじゃないんだよ。そんなことおれよりおまえたちがもっとよくわかってそうなもんじゃないか。」
すると波《なみ》はすこしたじろいだようにからっぽな音をたててからぶつぶつ呟《つぶや》くように答えました。「おれはまた、おまえたちならきっと何かにしなけぁ済《す》まないものと思ってたんだ。」
私はどきっとして顔を赤くしてあたりを見まわしました。
ほんとうにその返事《へんじ》は謙遜《けんそん》な申《もう》し訳《わ》けのような調子《ちょうし》でしたけれども私はまるで立っても居《い》てもいられないように思いました。
そしてそれっきり浪《なみ》はもう別《べつ》のことばで何べんも巻《ま》いて来ては砂《すな》をたててさびしく濁《にご》り、砂を滑《なめ》らかな鏡《かがみ》のようにして引いて行っては一きれの海藻《かいそう》をただよわせたのです。
そして、ほんとうに、こんなオホーツク海のなぎさに座《すわ》って乾《かわ》いて飛《と》んで来る砂やはまなすのいい匂《におい》を送《おく》って来る風のきれぎれのものがたりを聴《き》いているとほんとうに不思議《ふしぎ》な気持《きもち》がするのでした。それも風が私にはなしたのか私が風にはなしたのかあとはもうさっぱりわかりません。またそれらのはなしが金字の厚《あつ》い何|冊《さつ》もの百科辞典《ひゃっかじてん》にあるよう
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