イギリス海岸
宮沢賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)処《ところ》が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中央|分水嶺《ぶんすゐれい》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「土+盧」、第3水準1−15−68]
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 夏休みの十五日の農場実習の間に、私どもがイギリス海岸とあだ名をつけて、二日か三日ごと、仕事が一きりつくたびに、よく遊びに行った処《ところ》がありました。
 それは本たうは海岸ではなくて、いかにも海岸の風をした川の岸です。北上《きたかみ》川の西岸でした。東の仙人《せんにん》峠から、遠野を通り土沢を過ぎ、北上山地を横截《よこぎ》って来る冷たい猿《さる》ヶ石《いし》川の、北上川への落合から、少し下流の西岸でした。
 イギリス海岸には、青白い凝灰質の泥岩が、川に沿ってずゐぶん広く露出し、その南のはじに立ちますと、北のはづれに居る人は、小指の先よりもっと小さく見えました。
 殊にその泥岩層は、川の水の増すたんび、奇麗に洗はれるものですから、何とも云《い》へず青白くさっぱりしてゐました。
 所々には、水増しの時できた小さな壺穴《つぼあな》の痕《あと》や、またそれがいくつも続いた浅い溝《みぞ》、それから亜炭のかけらだの、枯れた蘆《あし》きれだのが、一列にならんでゐて、前の水増しの時にどこまで水が上ったかもわかるのでした。
 日が強く照るときは岩は乾いてまっ白に見え、たて横に走ったひゞ割れもあり、大きな帽子を冠《かむ》ってその上をうつむいて歩くなら、影法師は黒く落ちましたし、全くもうイギリスあたりの白堊《はくあ》の海岸を歩いてゐるやうな気がするのでした。
 町の小学校でも石の巻の近くの海岸に十五日も生徒を連れて行きましたし、隣りの女学校でも臨海学校をはじめてゐました。
 けれども私たちの学校ではそれはできなかったのです。ですから、生れるから北上の河谷の上流の方にばかり居た私たちにとっては、どうしてもその白い泥岩層をイギリス海岸と呼びたかったのです。
 それに実際そこを海岸と呼ぶことは、無法なことではなかったのです。なぜならそこは第三紀と呼ばれる地質時代の終り頃《ころ》、たしかにたびたび海の渚《なぎさ》だったからでした。その証拠には、第一にその泥岩は、東の北上山地のへりから、西の中央|分水嶺《ぶんすゐれい》の麓《ふもと》まで、一枚の板のやうになってずうっとひろがって居ました。たゞその大部分がその上に積った洪積の赤砂利や※[#「土+盧」、第3水準1−15−68]※[#「土+母」、102−13]《ローム》、それから沖積の砂や粘土や何かに被《おほ》はれて見えないだけのはなしでした。
それはあちこちの川の岸や崖《がけ》の脚には、きっとこの泥岩が顔を出してゐるのでもわかりましたし、又所々で掘り抜き井戸を穿《うが》ったりしますと、ぢきこの泥岩層にぶっつかるのでもしれました。
 第二に、この泥岩は、粘土と火山灰とまじったもので、しかもその大部分は静かな水の中で沈んだものなことは明らかでした。たとへばその岩には沈んでできた縞《しま》のあること、木の枝や茎のかけらの埋もれてゐること、ところどころにいろいろな沼地に生える植物が、もうよほど炭化してはさまってゐること、また山の近くには細かい砂利のあること、殊に北上山地のヘりには所々この泥岩層の間に砂丘の痕《あと》らしいものがはさまってゐることなどでした。さうして見ると、いま北上の平原になってゐる所は、一度は細長い幅三里ばかりの大きなたまり水だったのです。
 ところが、第三に、そのたまり水が塩からかった証拠もあったのです。それはやはり北上山地のへりの赤砂利から、牡蠣《かき》や何か、半鹹《はんかん》のところにでなければ住まない介殻《かひがら》の化石が出ました。
 さうして見ますと、第三紀の終り頃、それは或《あるい》は今から五六十万年或は百万年を数へるかも知れません、その頃今の北上の平原にあたる処は、細長い入海か鹹湖で、その水は割合浅く、何万年の永い間には処々水面から顔を出したり又引っ込んだり、火山灰や粘土が上に積ったり又それが削られたりしてゐたのです。その粘土は西と東の山地から、川が運んで流し込んだのでした。その火山灰は西の二列か三列の石英粗面岩の火山が、やっとしづまった処ではありましたが、やっぱり時々噴火をやったり爆発をしたりしてゐましたので、そこから降って来たのでした。
 その頃世界には人はまだ居なかったのです。殊に日本はごくごくこの間、三四千年前までは、全く人が居なかったと云ひますから、もちろん誰《たれ》もそれを見てはゐなかったでせう。その誰も見てゐない昔の空がやっぱり繰り返し繰り返し曇ったり又晴れたり、海の一とこがだんだん浅くなってたうとう水の上に顔を出し、そこに草や木が茂り、ことにも胡桃《くるみ》の木が葉をひらひらさせ、ひのきやいちゐがまっ黒にしげり、しげったかと思ふと忽《たちま》ち西の方の火山が赤黒い舌を吐き、軽石の火山礫《くゎざんれき》は空もまっくらになるほど降って来て、木は圧《お》し潰《つぶ》され、埋められ、まもなく又水が被《かぶ》さって粘土がその上につもり、全くまっくらな処に埋められたのでせう。考へても変な気がします。そんなことほんたうだらうかとしか思はれません。ところがどうも仕方ないことは、私たちのイギリス海岸では、川の水からよほどはなれた処に、半分石炭に変った大きな木の根株が、その根を泥岩の中に張り、そのみきと枝を軽石の火山礫層に圧し潰されて、ぞろっとならんでゐました。尤《もっと》もそれは間もなく日光にあたってぼろぼろに裂け、度々の出水に次から次と削られては行きましたが、新らしいものも又出て来ました。そしてその根株のまはりから、ある時私たちは四十近くの半分炭化したくるみの実を拾ひました。それは長さが二寸位、幅が一寸ぐらゐ、非常に細長く尖《とが》った形でしたので、はじめは私どもは上の重い地層に押し潰されたのだらうとも思ひましたが、縦に埋まってゐるのもありましたし、やっぱりはじめからそんな形だとしか思はれませんでした。
 それからはんの木の実も見附かりました。小さな草の実もたくさん出て来ました。
 この百万年昔の海の渚《なぎさ》に、今日は北上川が流れてゐます。昔、巨《おほ》きな波をあげたり、じっと寂《しづ》まったり、誰《たれ》も誰も見てゐない所でいろいろに変ったその巨きな鹹水《かんすゐ》の継承者は、今日は波にちらちら火を点じ、ぴたぴた昔の渚をうちながら夜昼南へ流れるのです。
 こゝを海岸と名をつけたってどうしていけないといはれませうか。
 それにも一つこゝを海岸と考へていゝわけは、ごくわづかですけれども、川の水が丁度大きな湖の岸のやうに、寄せたり退《ひ》いたりしたのです。それは向ふ側から入って来る猿《さる》ヶ石《いし》川とこちらの水がぶっつかるためにできるのか、それとも少し上流がかなりけはしい瀬になってそれがこの泥岩層の岸にぶっつかって戻るためにできるのか、それとも全くほかの原因によるのでせうか、とにかく日によって水が潮のやうに差し退きするときがあるのです。
 さうです。丁度一学期の試験が済んでその採点も終りあとは三十一日に成績を発表して通信簿を渡すだけ、私の方から云へばまあさうです、農場の仕事だってその日の午前で麦の運搬も終り、まあ一段落といふそのひるすぎでした。私たちは今年三度目、イギリス海岸へ行きました。瀬川の鉄橋を渡り牛蒡《ごぼう》や甘藍《キャベジ》が青白い葉の裏をひるがへす畑の間の細い道を通りました。
 みちにはすゞめのかたびらが穂を出していっぱいにかぶさってゐました。私たちはそこから製板所の構内に入りました。製板所の構内だといふことはもくもくした新らしい鋸屑《おがくづ》が敷かれ、鋸《のこぎり》の音が気まぐれにそこを飛んでゐたのでわかりました。鋸屑には日が照って恰度《ちゃうど》砂のやうでした。砂の向ふの青い水と救助区域の赤い旗と、向ふのブリキ色の雲とを見たとき、いきなり私どもはスヰーデンの峡湾にでも来たやうな気がしてどきっとしました。たしかにみんなさう云ふ気もちらしかったのです。製板の小屋の中は藍《あゐ》いろの影になり、白く光る円鋸《まるのこ》が四五|梃《ちゃう》壁にならべられ、その一梃は軸にとりつけられて幽霊のやうにまはってゐました。
 私たちはその横を通って川の岸まで行ったのです。草の生えた石垣《いしがき》の下、さっきの救助区域の赤い旗の下には筏《いかだ》もちやうど来てゐました。花城《くゎじゃう》や花巻の生徒がたくさん泳いで居《を》りました。けれども元来私どもはイギリス海岸に行かうと思ったのでしたからだまってそこを通りすぎました。そしてそこはもうイギリス海岸の南のはじなのでした。私たちでなくたって、折角川の岸までやって来ながらその気持ちのいゝ所に行かない人はありません。町の雑貨商店や金物店の息子たち、夏やすみで帰ったあちこちの中等学校の生徒、それからひるやすみの製板の人たちなどが、或《あるい》は裸になって二人三人づつそのまっ白な岩に座ったり、また網シャツやゆるい青の半ずぼんをはいたり、青白い大きな麦稈《むぎわら》帽をかぶったりして歩いてゐるのを見て行くのは、ほんたうにいゝ気持でした。
 そしてその人たちが、みな私どもの方を見てすこしわらってゐるのです。殊に一番いゝことは、最上等の外国犬が、向ふから黒い影法師と一緒に、一目散に走って来たことでした。実にそれはロバートとでも名の附きさうなもぢゃもぢゃした大きな犬でした。
「あゝ、いゝな。」私どもは一度に叫びました。誰《たれ》だって夏海岸へ遊びに行きたいと思はない人があるでせうか。殊にも行けたら、そしてさらはれて紡績工場などへ売られてあんまりひどい目にあはないなら、フランスかイギリスか、さう云ふ遠い所へ行きたいと誰も思ふのです。
 私たちは忙しく靴《くつ》やずぼんを脱ぎ、その冷たい少し濁った水へ次から次と飛び込みました。全くその水の濁りやうと来たら素敵に高尚《かうしゃう》なもんでした。その水へ半分顔を浸して泳ぎながら横目で海岸の方を見ますと、泥岩の向ふのはづれは高い草の崖《がけ》になって木もゆれ雲もまっ白に光りました。
 それから私たちは泥岩の出張った処に取りついてだんだん上りました。一人の生徒はスヰミングワルツの口笛を吹きました。私たちのなかでは、ほんたうのオーケストラを、見たものも聴いたことのあるものも少なかったのですから、もちろんそれは町の洋品屋の蓄音器から来たのですけれども、恰度《ちゃうど》そのやうに冷い水は流れたのです。
 私たちは泥岩層の上をあちこちあるきました。所々に壺穴《つぼあな》の痕《あと》があって、その中には小さな円い砂利が入ってゐました。
「この砂利がこの壺穴を穿《ほ》るのです。水がこの上を流れるでせう、石が水の底でザラザラ動くでせう。まはったりもするでせう、だんだん岩が穿れて行くのです。」
 また、赤い酸化鉄の沈んだ岩の裂け目に沿って、層がずうっと溝《みぞ》になって窪《くぼ》んだところもありました。それは沢山の壺穴を連結してちゃうどへうたんをつないだやうに見えました。
「斯《か》う云ふ溝は水の出るたんびにだんだん深くなるばかりです。なぜなら流されて行く砂利はあまりこの高い所を通りません。溝の中ばかりころんで行きます。溝は深くなる一方でせう。水の中をごらんなさい。岩がたくさん縦の棒のやうになってゐます。みんなこれです。」
「あゝ、騎兵だ、騎兵だ。」誰《たれ》かが南を向いて叫びました。
 下流のまっ青な水の上に、朝日橋がくっきり黒く一列浮び、そのらんかんの間を白い上着を着た騎兵たちがぞろっと並んで行きました。馬の足なみがかげろふのやうにちらちらちらちら光りました。それは一中隊ぐらゐで、鉄橋の上を行く汽車よりはもっとゆるく、小学校の遠足の
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