マグノリアの木
宮澤賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)霧《きり》が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半分|踏《ふ》み

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 霧《きり》がじめじめ降《ふ》っていた。
 諒安《りょうあん》は、その霧の底《そこ》をひとり、険《けわ》しい山谷の、刻《きざ》みを渉《わた》って行きました。
 沓《くつ》の底を半分|踏《ふ》み抜《ぬ》いてしまいながらそのいちばん高い処《ところ》からいちばん暗《くら》い深《ふか》いところへまたその谷の底から霧に吸《す》いこまれた次《つぎ》の峯《みね》へと一生けんめい伝《つた》って行きました。
 もしもほんの少しのはり合で霧を泳《およ》いで行くことができたら一つの峯から次の巌《いわ》へずいぶん雑作《ぞうさ》もなく行けるのだが私はやっぱりこの意地悪《いじわる》い大きな彫刻《ちょうこく》の表面《ひょうめん》に沿《そ》ってけわしい処ではからだが燃《も》えるようになり少しの平《たい》らなところではほっと息《いき》をつきながら地面《じめん》を這《は》わなければならないと諒安は思いました。
 全《まった》く峯にはまっ黒のガツガツした巌が冷《つめ》たい霧を吹《ふ》いてそらうそぶき折角《せっかく》いっしんに登《のぼ》って行ってもまるでよるべもなくさびしいのでした。
 それから谷の深い処には細《こま》かなうすぐろい灌木《かんぼく》がぎっしり生えて光を通すことさえも慳貪《けんどん》そうに見えました。
 それでも諒安《りょうあん》は次《つぎ》から次とそのひどい刻《きざ》みをひとりわたって行きました。
 何べんも何べんも霧《きり》がふっと明るくなりまたうすくらくなりました。
 けれども光は淡《あわ》く白く痛《いた》く、いつまでたっても夜にならないようでした。
 つやつや光る竜《りゅう》の髯《ひげ》のいちめん生えた少しのなだらに来たとき諒安はからだを投《な》げるようにしてとろとろ睡《ねむ》ってしまいました。
(これがお前の世界《せかい》なのだよ、お前に丁度《ちょうど》あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景色《けしき》なのだよ。)
 誰《だれ》かが、或《ある》いは諒安|自身《じしん》が、耳の近くで何べんも斯
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