りません。」一人の子がつつましく賢《かし》こそうな眼《め》をあげながら答えました。
「そうです、マグノリアの木は寂静印です。」
 強いはっきりした声が諒安《りょうあん》のうしろでしました。諒安は急《いそ》いでふり向《む》きました。子供らと同じなりをした丁度《ちょうど》諒安と同じくらいの人がまっすぐに立ってわらっていました。
「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感《かん》じているのですから。」
「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」
 その人は笑《わら》いました。諒安と二人ははじめて軽《かる》く礼《れい》をしました。
「ほんとうにここは平《たい》らですね。」諒安はうしろの方のうつくしい黄金の草の高原を見ながら云《い》いました。その人は笑いました。
「ええ、平らです、けれどもここの平らかさはけわしさに対《たい》する平らさです。ほんとうの平らさではありません。」
「そうです。それは私がけわしい山谷を渡《わた》ったから平らなのです。」
「ごらんなさい、そのけわしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲《さ》いています。」
「ええ、ありがとう、ですからマグノリアの木は寂静《じゃくじょう》です。あの花びらは天の山羊《やぎ》の乳《ちち》よりしめやかです。あのかおりは覚者《かくしゃ》たちの尊《とうと》い偈《げ》を人に送《おく》ります。」
「それはみんな善《ぜん》です。」
「誰《だれ》の善ですか。」諒安はも一度《いちど》その美《うつく》しい黄金の高原とけわしい山谷の刻《きざ》みの中のマグノリアとを見ながらたずねました。
「覚者の善です。」その人の影《かげ》は紫《むらさき》いろで透明《とうめい》に草に落《お》ちていました。
「そうです、そしてまた私どもの善です。覚者の善は絶対《ぜったい》です。それはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい峯《みね》のつめたい巌《いわ》にもあらわれ、谷の暗《くら》い密林《みつりん》もこの河《かわ》がずうっと流《なが》れて行って氾濫《はんらん》をするあたりの度々《たびたび》の革命《かくめい》や饑饉《ききん》や疫病《やくびょう》やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です。
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