にしながら、
「よし、持ってこい。」と声だけ高く云いました。
「承知しました。」
 給仕が食事につかうナイフを二本持って来て、うやうやしくデストゥパーゴにわたしました。まるで芝居だとわたくしは思いました。ところがデストゥパーゴはていねいにこの両方の刃をしらべているのです。それから、
「さあどっちでもいい方をとれ。」といって二本ともファゼーロに渡しました。
 ファゼーロはすぐその一本をデストゥパーゴの足もとに投げて返しました。デストゥパーゴは拾いました。
 そこでわたくしはまん中に出ました。
「いいか。決闘の法式に従うぞ。組打ちはならんぞ。一、二、三、よし。」
 すると何のことはない、デストゥパーゴはそのみじかいナイフを剣のように持って一生けんめいファゼーロの胸をつきながら後退りしましたしファゼーロは短刀をもつように柄をにぎってデストゥパーゴの手首をねらいましたので、三度ばかりぐるぐるまわってからデストゥパーゴはいきなりナイフを落して左の手で右の手くびを押えてしまいました。
「おい、おい、やられたよ。誰か沃度《ヨード》ホルムをもっていないか。過酸化水素はないか。やられた、やられた。」
 そしてべったり椅子へ坐ってしまいました。わたくしはわらいました。
「よくいろいろの薬の名前をご存知ですな。だれか水を持ってきてください。」
ところがその水をミーロがもってきました。そして如露《じょろ》でシャーとかけましたのでデストゥパーゴは膝から胸からずぶぬれになって立ちあがりました。
 そして工合のわるいのをごまかすように、
「ええと、我輩はこれで失敬する。みんな充分やってくれ給え。」と勢よく云いながら、すばやく野原のなかへ走りました。
 するとテーモも夏フロックもそのほか四五人急いであとを追いかけて行ってしまいました。行ってしまうと、にわかにみんなが元気よくなりました。
「やい、ファゼーロ、うまいことをやったなあ。この旦那はいったい誰だい。」
「競馬場に居る人なんだよ。」
「いったい今夜はどういうんですか。」わたくしはやっとたずねました。
「いいや、山猫の野郎、来年の選挙の仕度なんですよ。ただで酒を呑ませるポラーノの広場とはうまく考えたなあ。」
「この春からかわるがわるこうやってみんなを集めて呑ませたんです。」
「その酒もなあ。」
「そいつは云うな。さあ一杯やりませんか。」
「いいえ、わたしどもは呑みません。」
「まあ、おやんなさい。」
 わたくしはもうたまらなくいやになりました。
「おい、ファゼーロ行こう。帰ろう。」
 わたくしはいきなり野原へ走りだしました。ファゼーロがすぐついて来ました。みんなはあとでまだがやがやがやがや云っていました。新らしく楽隊も鳴りました。誰かの演説する声もきこえました。わたくしたちは二人、モリーオの市の方のぼんやり明るいのを目あてにつめくさのあかりのなかを急ぎました。そのとき青く二十日の月が黒い横雲の上からしずかにのぼってきました。ふりかえってみると、もうあのはんの木もあかりも小さくなって銀河はずうっと西へまわり、さそり座の赤い星がすっかり南へ来ていました。
 わたくしどもは間もなくこの前三人で別れたあたりへ着きました。
「きみはテーモのところへ帰るかい。」わたくしはふと気がついて云いました。
「帰るよ。姉さんが居るもの。」ファゼーロは大へんかなしそうなせまった声で云いました。
「うん。だけどいじめられるだろう。」わたくしは云いました。
「ぼくが行かなかったら姉さんがもっといじめられるよ。」ファゼーロはとうとう泣きだしました。
「わたしもいっしょに行こうか。」
「だめだよ。」ファゼーロはまだしばらく泣いていました。
「わたしのうちへ来るかい。」
「だめだよ。」
「そんならどうするの。」
 ファゼーロはしばらくだまっていましたが、俄かに勢よくなって云いました。
「いいよ。大丈夫だよ。テーモはぼくをそんなにいじめやしないから。」
 わたくしは、それが役人をしているものなどの癖なのです、役所でのあしたの仕事などぼんやり考えながらファゼーロがそういうならよかろうと思ってしまいました。
「そんならいいだろう。何かあったらしらせにおいでよ。」
「うん、ぼくね、ねえさんのことでたのみに行くかもしれない。」
「ああいいとも。」
「じゃ、さよなら。」
 ファゼーロはつめくさのなかに黒い影を長く引いて南の方へ行きました。わたくしはふりかえりふりかえり帰って来ました。
 うちへはいってみると、机の上には夕方の酒石酸のコップがそのまま置かれて電燈に光り枕時計の針は二時を指していました。

       四、警察署

 ところがその次の次の日のひるすぎでした。わたくしが役所の机で古い帳簿から写しものをしていますと給仕が来てわたくしの肩をつっついて、
「所長さんがすぐ来いって。」と云いました。
 わたくしはすぐペンを置いてみんなの椅子の間を通り、間の扉をあけて所長室にはいりました。
 すると所長は一枚の紙きれを持って扉をあける前から恐い顔つきをして、わたくしの方を見ていましたが、わたくしが前に行って恭《うやうや》しく礼をすると、またじっとわたくしの様子を見てからだまってその紙切れを渡しました。見ると、
[#天から3字下げ]イ警第三二五六号 聴取の要有之本日午後三時本警察署人事係まで出頭致され度《た》し
[#地から3字上げ]イーハトーヴォ警察署[#地より3字上げ]
[#天から6字下げ]一九二七年六月廿九日
[#天から1字下げ]第十八等官レオーノ・キュースト殿
とあったのです。
 ああ、あのデストゥパーゴのことだな、これはおもしろいと、わたくしは心のなかでわらいました。すると所長はまだわたくしの顔付きをだまってみていましたが、
「心当りがあるか。」と云いました。
「はい、ございます。」わたくしはまっすぐ両手を下げて答えました。
 所長は安心したようにやっと顔つきをゆるめて、ちらっと時計を見上げましたが、
「よし、すぐ行くように。」と云いました。
 わたくしはまたうやうやしく礼をして室を出ました。それから席へ戻って机の上をかたづけて、そっと役所を出かけました。巨きな桜の街路樹の下をあるいて行って、警察の赤い煉瓦造りの前に立ちましたら、さすがにわたくしもすこしどきどきしました。けれども何も悪いことはないのだからと、じぶんでじぶんをはげまして勢よく玄関の正面の受付にたずねました。
「お呼びがありましたので参りましたが、レオーノ・キューストでございます。」
 すると受付の巡査はだまって帳面を五六枚繰っていましたが、
「ああ失踪《しっそう》者の件だね、人事係のとこへ、その左の方の入口からはいって待っていたまえ。」と云いました。
 失踪者の件というのは何のことだろう、決闘の件とでも云うならわかっているし、その決闘なら刃の円くなった食卓ナイフでやったことなのだ、デストゥパーゴが血を出したかどうかもわからない、まあ何かの間違いだろうと思いながら、わたくしは室へ入って行きました。そこはがらんとした、窓の七つばかりある広い室でしたが、その片隅みにあの山猫博士の馬車別当が、からだを無暗《むやみ》にこわばらして、じつに青ざめた変な顔をしながら腰かけて待って居りました。
「やあ、じいさん、今日は、あなたも呼ばれたんですか。」わたくしはそばへ行ってわらいながら挨拶《あいさつ》しました。
 するとじいさんは、こんな悪者と話し合ってはどんな眼にあうかわからないというように、うろうろどこか遁げ口でもさがすように立ちあがって、またべったり坐りました。
「あなたのご主人はいらっしゃらないのですか。」わたくしはまたたずねました。
「いらっしゃらないともさ。」じいさんはやっと云いましたが、それからがたがたふるえました。
「いったいどうしたんですか。」わたくしはまだわらってききました。
「いま調べられてるんだよ。」
「誰が。」わたくしはびっくりしてたずねました。
「ロザーロがさ。」
「ロザーロ、どうして?」もうわたくしはすっかり本気になってしまいました。
「ファゼーロが居なくなったからさ。」
「ファゼーロ?」思わずわたくしは高く叫びました。
 ああ、あの晩ファゼーロが帰る途中で何かあったのだな、……。
「話しすることはならん。」
 いきなり奥の扉が、がたっとあきました。
「召喚《しょうかん》人はお互話しすることはならん。おい、おまえはこっちへはいって居ろ。」
 じいさんは呼ばれてよろよろ立って次の室へ行きました。そう云われて見ると、なるほど次の室ではロザーロが誰かに調べられているらしく、さっきからしずかに何か繰り返し繰り返し云って居るような気もしました。わたくしはまるで胸が迫ってしまいました。
 ファゼーロが居ない、ファゼーロが居ない、あの青い半分の月のあかりのなかで争って勝ったあとのあの何とも云われないきびしい気持をいだきながら、ファゼーロがつめくさのあおじろいあかりの上に影を長く長く引いて、しょんぼりと帰って行った、そこには麻の夏外套のえりを立てたデストゥパーゴが三四人の手下を連れて待ち伏せしている、ファゼーロがそれを見て立ちどまると向うは笑いながらしずかにそばへ追って来る、いきなり一人がファゼーロを撲りつける、みんなたかって来て、むだに手をふりまわすファゼーロをふんだりけったりする、ファゼーロは動かなくなる、デストゥパーゴがそれをまためちゃくちゃにふみつける、ええ、もう仕方ない持ってけ持ってけとデストゥパーゴが云う、みんなはそれを乾溜工場のかまの中に入れる、わたくしはひとりでかんがえてぞっとして眼をひらきました。
(ああ、あのときなぜわたくしはそのままうちへ帰ってねむったろう、なぜそんなわたくしが立っても居てもいられないはずの時刻に、わけもわからない眠りかたなどしていたろう。それにあのやさしいうつくしいロザーロがいま隣りの室でおどされたり鎌《かま》をかけられたりしているのだ。)
 わたくしはたまらなくなってその室のなかをぐるぐる何べんもあるきました。窓の外の桜の木の向うをいろいろの人が行ったり来たりしました。わたくしはその一人一人がデストゥパーゴかファゼーロのような気がしてたまりませんでした。鳥打帽子を深くかぶった少年が通るとファゼーロが遁げてここをそっと通るのかと思い、肥った人を見るとデストゥパーゴがわざとそんな形にばけて、様子をさぐっているのだと思いました。突然わたくしは頭がしいんとなってしまいました。隣りの室でかすかなすすり泣きの声がして、それからそれは何とかだっと叫びながらおどかすように足をどんとふみつけているのです。わたくしはあぶなく扉をあけて飛び込もうとしました。するとまたしばらくしずかになっていましたが間もなく扉のとってが力なくがちっとまわって、ロザーロが眼を大きくあいてよろめくようにでてきました。
 わたくしは何といっていいかわからなくてどぎまぎしてしまいました。するとロザーロがだまってしずかにおじぎをして私の前を通り抜けて外へ出て行きました。気がついて見るとロザーロのあとからさっきの警部か巡査からしい人が扉から顔を出して出て行くのを見ていたのです。わたくしがそっちを見ますと、その顔はひっこんで扉はしまってしまいました。中ではこんどは山猫博士の馬車別当が何か訊かれているようすで、たびたび、何か高声でどなりつけるたびに馬車別当のおろおろした声がきこえていました。わたくしはその間にすっかり考えをまとめようと思いましたが、何もかもごちゃごちゃになってどうしてもできませんでした。とにかくすっかり打ち明けて係りへ話すのがいちばんだと考えて、もうじっとすわって落ち着いて居りました。すると間もなくさっきの扉が、がじゃっとあいて馬車別当がまっ青になってよろよろしながら出てきました。
「第十八等官、レオーノ・キュースト氏はあなたですか。」さっきの人がまた顔を出して云いました。
「そうです。」
「では、こっちへ。」
 わたくしははいって行きました。そこには、も一人正面
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