チュウリップの幻術
宮沢賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)農園《のうえん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)八|銭《せん》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)2[#「2」はローマ数字、1−13−22]
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 この農園《のうえん》のすもものかきねはいっぱいに青じろい花をつけています。
 雲は光って立派《りっぱ》な玉髄《ぎょくずい》の置物《おきもの》です。四方の空を繞《めぐ》ります。
 すもものかきねのはずれから一人の洋傘《ようがさ》直しが荷物《にもつ》をしょって、この月光をちりばめた緑《みどり》の障壁《しょうへき》に沿《そ》ってやって来ます。
 てくてくあるいてくるその黒い細い脚《あし》はたしかに鹿《しか》に肖《に》ています。そして日が照《て》っているために荷物の上にかざされた赤白だんだらの小さな洋傘は有平糖《あるへいとう》でできてるように思われます。
(洋傘直し、洋傘直し、なぜそうちらちらかきねのすきから農園の中をのぞくのか。)
 そしててくてくやって来ます。有平糖のその洋傘はいよいよひかり洋傘直しのその顔はいよいよ熱《ほて》って笑《わら》っています。
(洋傘直し、洋傘直し、なぜ農園の入口でおまえはきくっと曲《まが》るのか。農園の中などにおまえの仕事《しごと》はあるまいよ。)
 洋傘《ようがさ》直しは農園《のうえん》の中へ入ります。しめった五月の黒つちにチュウリップは無雑作《むぞうさ》に並《なら》べて植《う》えられ、一めんに咲《さ》き、かすかにかすかにゆらいでいます。
(洋傘直し、洋傘直し。荷物をおろし、おまえは汗《あせ》を拭《ふ》いている。そこらに立ってしばらく花を見ようというのか。そうでないならそこらに立っていけないよ。)
 園丁《えんてい》がこてをさげて青い上着《うわぎ》の袖《そで》で額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ふ》きながら向《むこ》うの黒い独乙唐檜《ドイツとうひ》の茂《しげ》みの中から出て来ます。
「何のご用ですか。」
「私は洋傘直しですが何かご用はありませんか。若《も》しまた何か鋏《はさみ》でも研《と》ぐのがありましたらそちらのほうもいたします。」
「ああそうですか。一寸《ちょっと》お待《ま》ちなさい。主人《しゅじん》に聞いてあげましょう。」
「どうかお願《ねが》いいたします。」
 青い上着の園丁は独乙唐檜の茂みをくぐって消《き》えて行き、それからぽっと陽《ひ》も消えました。
 よっぽど西にその太陽《たいよう》が傾《かたむ》いて、いま入ったばかりの雲の間から沢山《たくさん》の白い光の棒《ぼう》を投《な》げそれは向《むこ》うの山脈《さんみゃく》のあちこちに落《お》ちてさびしい群青《ぐんじょう》の泣《な》き笑《わら》いをします。
 有平糖《あるへいとう》の洋傘もいまは普通《ふつう》の赤と白とのキャラコです。
 それから今度《こんど》は風が吹《ふ》きたちまち太陽は雲を外《はず》れチュウリップの畑《はたけ》にも不意《ふい》に明るく陽《ひ》が射《さ》しました。まっ赤《か》な花がぷらぷらゆれて光っています。
 園丁《えんてい》がいつか俄《にわ》かにやって来てガチャッと持《も》って来たものを置《お》きました。
「これだけお願《ねが》いするそうです。」
「へい。ええと。この剪定鋏《せんていばさみ》はひどく捩《ねじ》れておりますから鍛冶《かじ》に一ぺんおかけなさらないと直りません。こちらのほうはみんな出来ます。はじめにお値段《ねだん》を決《き》めておいてよろしかったらお研《と》ぎいたしましょう。」
「そうですか。どれだけですか。」
「こちらが八|銭《せん》、こちらが十銭、こちらの鋏は二|丁《ちょう》で十五銭にいたしておきましょう。」
「ようござんす。じゃ願います。水がありますか。持って来てあげましょう。その芝《しば》の上がいいですか。どこでもあなたのすきな処《ところ》でおやりなさい。」
「ええ、水は私が持《も》って参《まい》ります。」
「そうですか。そこのかきねのこっち側《がわ》を少し右へついておいでなさい。井戸《いど》があります。」
「へい。それではお研ぎいたしましょう。」
「ええ。」
 園丁《えんてい》はまた唐檜《とうひ》の中にはいり洋傘《ようがさ》直しは荷物《にもつ》の底《そこ》の道具《どうぐ》のはいった引き出しをあけ缶《かん》を持って水を取《と》りに行きます。
 そのあとで陽《ひ》がまたふっと消《き》え、風が吹《ふ》き、キャラコの洋傘はさびしくゆれます。
 それから洋傘直しは缶の水をぱちゃぱちゃこぼしながら戻《もど》って来ます。
 鋼砥《かなど》の上で金鋼砂《こんごうしゃ》がじゃりじゃり云《い》いチュウリップはぷらぷらゆれ、陽がまた降《ふ》って赤い花は光ります。
 そこで砥石《といし》に水が張《は》られすっすと払《はら》われ、秋の香魚《あゆ》の腹《はら》にあるような青い紋《もん》がもう刃物《はもの》の鋼《はがね》にあらわれました。
 ひばりはいつか空にのぼって行ってチーチクチーチクやり出します。高い処《ところ》で風がどんどん吹きはじめ雲はだんだん融《と》けていっていつかすっかり明るくなり、太陽は少しの午睡《ごすい》のあとのようにどこか青くぼんやりかすんではいますがたしかにかがやく五月のひるすぎを拵《こしら》えました。
 青い上着《うわぎ》の園丁が、唐檜の中から、またいそがしく出て来ます。
「お折角《せっかく》ですね、いい天気になりました。もう一つお願《ねが》いしたいんですがね。」
「何ですか。」
「これですよ。」若い園丁《えんてい》は少し顔を赤くしながら上着のかくしから角柄《つのえ》の西洋剃刀《せいようかみそり》を取り出します。
 洋傘《ようがさ》直しはそれを受《う》け取《と》って開《ひら》いて刃《は》をよく改《あらた》めます。
「これはどこでお買いになりました。」
「貰《もら》ったんですよ。」
「研《と》ぎますか。」
「ええ。」
「それじゃ研いでおきましょう。」
「すぐ来ますからね、じきに三時のやすみです。」園丁は笑《わら》って光ってまた唐檜《とうひ》の中にはいります。
 太陽《たいよう》はいまはすっかり午睡《ごすい》のあとの光のもやを払《はら》いましたので山脈《さんみゃく》も青くかがやき、さっきまで雲にまぎれてわからなかった雪の死火山《しかざん》もはっきり土耳古玉《トルコだま》のそらに浮《う》きあがりました。
 洋傘直しは引き出しから合《あわ》せ砥《ど》を出し一寸《ちょっと》水をかけ黒い滑《なめ》らかな石でしずかに練《ね》りはじめます。それからパチッと石をとります。
(おお、洋傘直し、洋傘直し、なぜその石をそんなに眼《め》の近くまで持《も》って行ってじっとながめているのだ。石に景色《けしき》が描《か》いてあるのか。あの、黒い山がむくむく重《かさ》なり、その向《むこ》うには定《さだ》めない雲が翔《か》け、渓《たに》の水は風より軽《かる》く幾本《いくほん》の木は険《けわ》しい崖《がけ》からからだを曲《ま》げて空に向《むか》う、あの景色が石の滑らかな面《めん》に描いてあるのか。)
 洋傘直しは石を置《お》き剃刀《かみそり》を取ります。剃刀は青ぞらをうつせば青くぎらっと光ります。
 それは音なく砥石《といし》をすべり陽《ひ》の光が強いので洋傘直しはポタポタ汗《あせ》を落《おと》します。今は全《まった》く五月のまひるです。
 畑《はたけ》の黒土はわずかに息《いき》をはき風が吹《ふ》いて花は強くゆれ、唐檜も動きます。
 洋傘直しは剃刀をていねいに調《しら》べそれから茶いろの粗布《あらぬの》の上にできあがった仕事《しごと》をみんな載《の》せほっと息して立ちあがります。
 そして一足チュウリップの方に近づきます。
 園丁が顔をまっ赤《か》にほてらして飛《と》んで来ました。
「もう出来たんですか。」
「ええ。」
「それでは代《だい》を持《も》って来ました。そっちは三十三|銭《せん》ですね。お取《と》り下さい。それから私の分はいくらですか。」
 洋傘《ようがさ》直しは帽子《ぼうし》をとり銀貨《ぎんか》と銅貨《どうか》とを受《う》け取《と》ります。
「ありがとうございます。剃刀《かみそり》のほうは要《い》りません。」
「どうしてですか。」
「お負《ま》けいたしておきましょう。」
「まあ取って下さい。」
「いいえ、いただくほどじゃありません。」
「そうですか。ありがとうございました。そんなら一寸《ちょっと》向《むこ》うの番小屋《ばんごや》までおいで下さい。お茶でもさしあげましょう。」
「いいえ、もう失礼《しつれい》いたします。」
「それではあんまりです。一寸お待《ま》ち下さい。ええと、仕方《しかた》ない、そんならまあ私の作った花でも見て行って下さい。」
「ええ、ありがとう。拝見《はいけん》しましょう。」
「そうですか。では。」
 その気紛《きまぐ》れの洋傘直しと園丁《えんてい》とはうっこんこうの畑《はたけ》の方へ五、六歩|寄《よ》ります。
 主人らしい人の縞《しま》のシャツが唐檜《とうひ》の向うでチラッとします。園丁はそっちを見かすかに笑い何か云《い》いかけようとします。
 けれどもシャツは見えなくなり、園丁は花を指《ゆび》さします。
「ね、此《こ》の黄と橙《だいだい》の大きな斑《ぶち》はアメリカから直《じ》かに取《と》りました。こちらの黄いろは見ていると額《ひたい》が痛《いた》くなるでしょう。」
「ええ。」
「この赤と白の斑《ぶち》は私はいつでも昔《むかし》の海賊《かいぞく》のチョッキのような気がするんですよ。ね。
 それからこれはまっ赤《か》な羽二重《はぶたえ》のコップでしょう。この花びらは半ぶんすきとおっているので大へん有名《ゆうめい》です。ですからこいつの球《きゅう》はずいぶんみんなで欲《ほ》しがります。」
「ええ、全《まった》く立派《りっぱ》です。赤い花は風で動《うご》いている時よりもじっとしている時のほうがいいようですね。」
「そうです。そうです。そして一寸《ちょっと》あいつをごらんなさい。ね。そら、その黄いろの隣《とな》りのあいつです。」
「あの小さな白いのですか。」
「そうです、あれは此処《ここ》では一番大切なのです。まあしばらくじっと見詰《みつ》めてごらんなさい。どうです、形のいいことは一等《いっとう》でしょう。」
 洋傘《ようがさ》直しはしばらくその花に見入ります。そしてだまってしまいます。
「ずいぶん寂《しず》かな緑《みどり》の柄《え》でしょう。風にゆらいで微《かす》かに光っているようです。いかにもその柄が風に靱《しな》っているようです。けれども実《じつ》は少しも動いておりません。それにあの白い小さな花は何か不思議《ふしぎ》な合図を空に送《おく》っているようにあなたには思われませんか。」
 洋傘直しはいきなり高く叫《さけ》びます。
「ああ、そうです、そうです、見えました。
 けれども何だか空のひばりの羽の動かしようが、いや鳴きようが、さっきと調子《ちょうし》をちがえてきたではありませんか。」
「そうでしょうとも、それですから、ごらんなさい。あの花の盃《さかずき》の中からぎらぎら光ってすきとおる蒸気《じょうき》が丁度《ちょうど》水へ砂糖《さとう》を溶《とか》したときのようにユラユラユラユラ空へ昇《のぼ》って行くでしょう。」
「ええ、ええ、そうです。」
「そして、そら、光が湧《わ》いているでしょう。おお、湧きあがる、湧きあがる、花の盃《さかずき》をあふれてひろがり湧きあがりひろがりひろがりもう青ぞらも光の波《なみ》で一ぱいです。山脈《さんみゃく》の雪も光の中で機嫌《きげん》よく空へ笑《わら》っています。湧きます、湧きます。ふう、チュウリップの光の酒《さけ》。どうです。チュウリップの光の酒。ほめて下さい。」
「ええ、このエステルは上等《じょうとう》
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