です。とても合成《ごうせい》できません。」
「おや、エステルだって、合成だって、そいつは素敵《すてき》だ。あなたはどこかの化学《かがく》大学校を出た方ですね。」
「いいえ、私はエステル工学校の卒業生《そつぎょうせい》です。」
「エステル工学校。ハッハッハ。素敵だ。さあどうです。一杯《いっぱい》やりましょう。チュウリップの光の酒。さあ飲《の》みませんか。」
「いや、やりましょう。よう、あなたの健康《けんこう》を祝《しゅく》します。」
「よう、ご健康を祝します。いい酒です。貧乏《びんぼう》な僕《ぼく》のお酒はまた一層《いっそう》に光っておまけに軽《かる》いのだ。」
「けれどもぜんたいこれでいいんですか。あんまり光が過《す》ぎはしませんか。」
「いいえ心配《しんぱい》ありません。酒があんなに湧きあがり波を立てたり渦《うず》になったり花弁《かべん》をあふれて流《なが》れてもあのチュウリップの緑《みどり》の花柄《かへい》は一寸《ちょっと》もゆらぎはしないのです。さあも一つおやりなさい。」
「ええ、ありがとう。あなたもどうです。奇麗《きれい》な空じゃありませんか。」
「やりますとも、おっと沢山《たくさん》沢山。けれどもいくらこぼれたところでそこら一面《いちめん》チュウリップ酒《しゅ》の波だもの。」
「一面どころじゃありません。そらのはずれから地面《じめん》の底《そこ》まですっかり光の領分《りょうぶん》です。たしかに今は光のお酒が地面の腹《はら》の底《そこ》までしみました。」
「ええ、ええ、そうです。おや、ごらんなさい、向《むこ》うの畑《はたけ》。ね。光の酒に漬《つか》っては花椰菜《はなやさい》でもアスパラガスでも実《じつ》に立派《りっぱ》なものではありませんか。」
「立派ですね。チュウリップ酒で漬《つ》けた瓶詰《びんづめ》です。しかし一体ひばりはどこまで逃《に》げたでしょう。どこまで逃げて行ったのかしら。自分で斯《こ》んな光の波《なみ》を起《おこ》しておいてあとはどこかへ逃げるとは気取《きど》ってやがる。あんまり気取ってやがる、畜生《ちくしょう》。」
「まったくそうです。こら、ひばりめ、降《お》りて来い。ははぁ、やつ、溶《と》けたな。こんなに雲もない空にかくれるなんてできないはずだ。溶けたのですよ。」
「いいえ、あいつの歌なら、あの甘《あま》ったるい歌なら、さっきから光の中に溶けていましたがひばりはまさか溶けますまい。溶けたとしたらその小さな骨《ほね》を何かの網《あみ》で掬《すく》い上げなくちゃなりません。そいつはあんまり手数です。」
「まあそうですね。しかしひばりのことなどはまあどうなろうと構《かま》わないではありませんか。全体《ぜんたい》ひばりというものは小さなもので、空をチーチクチーチク飛《と》ぶだけのもんです。」
「まあ、そうですね、それでいいでしょう。ところが、おやおや、あんなでもやっぱりいいんですか。向うの唐檜《とうひ》が何だかゆれて踊《おど》り出すらしいのですよ。」
「唐檜ですか。あいつはみんなで、一小隊《いっしょうたい》はありましょう。みんな若《わか》いし擲弾兵《グレナデーア》です。」
「ゆれて踊っているようですが構いませんか。」
「なあに心配《しんぱい》ありません。どうせチュウリップ酒《しゅ》の中の景色《けしき》です。いくら跳《は》ねてもいいじゃありませんか。」
「そいつは全《まった》くそうですね。まあ大目に見ておきましょう。」
「大目に見ないといけません。いい酒だ。ふう。」
「すももも踊り出しますよ。」
「すももは墻壁仕立《しょうへきじたて》です。ダイアモンドです。枝《えだ》がななめに交叉《こうさ》します。一中隊はありますよ。義勇《ぎゆう》中隊です。」
「やっぱりあんなでいいんですか。」
「構《かま》いませんよ。それよりまああの梨《なし》の木どもをご覧《らん》なさい。枝《えだ》が剪《き》られたばかりなので身体《からだ》が一向《いっこう》釣《つ》り合いません。まるで蛹《さなぎ》の踊《おど》りです。」
「蛹踊《さなぎおどり》とはそいつはあんまり可哀《かわい》そうです。すっかり悄気《しょげ》て化石《かせき》してしまったようじゃありませんか。」
「石になるとは。そいつはあんまりひどすぎる。おおい。梨の木。木のまんまでいいんだよ。けれども仲々《なかなか》人の命令《めいれい》をすなおに用いるやつらじゃないんです。」
「それより向《むこ》うのくだものの木の踊りの環《わ》をごらんなさい。まん中に居《い》てきゃんきゃん調子《ちょうし》をとるのがあれが桜桃《おうとう》の木ですか。」
「どれですか。あああれですか。いいえ、あいつは油桃《つばいもも》です。やっぱり巴丹杏《はたんきょう》やまるめろの歌は上手《じょうず》です。どうです。行って仲間《なかま》にはいりましょうか。行きましょう。」
「行きましょう。おおい。おいらも仲間に入れろ。痛《いた》い、畜生《ちくしょう》。」
「どうかなさったのですか。」
「眼《め》をやられました。どいつかにひどく引っ掻《か》かれたのです。」
「そうでしょう。全体《ぜんたい》駄目《だめ》です。どいつも満足《まんぞく》の手のあるやつはありません。みんなガリガリ骨《ほね》ばかり、おや、いけない、いけない、すっかり崩《くず》れて泣《な》いたりわめいたりむしりあったりなぐったり一体あんまり冗談《じょうだん》が過《す》ぎたのです。」
「ええ、斯《こ》う世《よ》の中が乱《みだ》れては全《まった》くどうも仕方《しかた》ありません。」
「全くそうです。そうら。そら、火です、火です。火がつきました。チュウリップ酒《しゅ》に火がはいったのです。」
「いけない、いけない。はたけも空もみんなけむり、しろけむり。」
「パチパチパチパチやっている。」
「どうも素敵《すてき》に強い酒《さけ》だと思いましたよ。」
「そうそう、だからこれはあの白いチュウリップでしょう。」
「そうでしょうか。」
「そうです。そうですとも。ここで一番|大事《だいじ》な花です。」
「ああ、もうよほど経《た》ったでしょう。チュウリップの幻術《げんじゅつ》にかかっているうちに。もう私は行かなければなりません。さようなら。」
「そうですか、ではさようなら。」
 洋傘《ようがさ》直しは荷物《にもつ》へよろよろ歩いて行き、有平糖《あるへいとう》の広告《こうこく》つきのその荷物を肩《かた》にし、もう一度《いちど》あのあやしい花をちらっと見てそれからすももの垣根《かきね》の入口にまっすぐに歩いて行きます。
 園丁《えんてい》は何だか顔が青ざめてしばらくそれを見送《みおく》りやがて唐檜《とうひ》の中へはいります。
 太陽《たいよう》はいつかまた雲の間にはいり太い白い光の棒《ぼう》の幾条《いくすじ》を山と野原とに落《おと》します。



底本:「インドラの網」角川文庫、角川書店
   1996(平成8)年4月25日初版発行
   1996(平成8)年6月20日再版発行
底本の親本:「【新】校本宮澤賢治全集 第九巻 童話2[#「2」はローマ数字、1−13−22] 本文篇」筑摩書房
   1995(平成7)年6月
入力:土屋隆
校正:川山隆
2008年5月16日作成
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