中からみちにあがり二人とならんで立ってゐた馬もみちにあがりました。ところが馬を引いた人たちはいろいろ話をはじめました。
兄弟はしばらくは、立って自分たちの方の馬の歩き出すのを待ってゐましたがあまり待ち遠しかったのでたうとう少しづつあるき出しました。あとはもう峠を一つ越えればすぐ家でしたし、一里もないのでしたからそれに天気も少しは曇ったってみちはまっすぐにつゞいてゐるのでしたから何でもないと一郎も思ひました。
馬をひいた人は兄弟が先に歩いて行くのを一寸《ちょっと》よこめで見てゐましたがすぐあとから追ひつくつもりらしくだまって話をつゞけました。
楢夫はもう早くうちへ帰りたいらしくどんどん歩き出し一郎もたびたびうしろをふりかへって見ましたが馬が雪の中で茶いろの首を垂れ二人の人が話し合って白い大きな手甲がちらっと見えたりするだけでしたからやっぱり歩いて行きました。
みちはだんだんのぼりになりつひにはすっかり坂になりましたので楢夫はたびたび膝《ひざ》に手をつっぱって「うんうん」とふざけるやうにしながらのぼりました。一郎もそのうしろからはあはあ息をついて
「よう、坂道、よう、山道」なんて云ひながら進んで行きました。
けれどもたうとう楢夫は、つかれてくるりとこっちを向いて立ちどまりましたので、一郎はいきなりひどくぶっつかりました。
「疲《こは》いが。」一郎もはあはあしながら云ひました。来た方を見ると路《みち》は一すぢずうっと細くついて人も馬ももう丘のかげになって見えませんでした。いちめんまっ白な雪、(それは大へんくらく沈んで見えました。空がすっかり白い雲でふさがり太陽も大きな銀の盤のやうにくもって光ってゐたのです)がなだらかに起伏しそのところどころに茶いろの栗《くり》や柏《かしは》の木が三本四本づつちらばってゐるだけじつにしぃんとして何ともいへないさびしいのでした。けれども楢夫はその丘の自分たちの頭の上からまっすぐに向ふへかけおりて行く一|疋《ぴき》の鷹《たか》を見たとき高く叫びました。
「しっ、鳥だ。しゅう。」
一郎はだまってゐました。けれどもしばらく考えてから云ひました。
「早ぐ峠越えるべ。雪降って来るぢょ。」
ところが丁度そのときです。まっしろに光ってゐる白いそらに暗くゆるやかにつらなってゐた峠の頂の方が少しぼんやり見えて来ました。そしてまもなく小さな小さな乾いた雪のこなが少しばかりちらっちらっと二人の上から落ちて参りました。
「さあ楢夫、早ぐのぼれ、雪降って来た。上さ行げば平らだはんて。」一郎が心配さうに云ひました。
楢夫は兄の少し変わった声を聞いてにはかにあわてました。そしてまるでせかせかとのぼりました。
「あんまり急ぐな。大丈夫だはんて、なあにあど一里も無ぃも。」一郎も息をはづませながら云ひました。けれどもじっさい二人とも急がずに居られなかったのです。めの前もくらむやうに急ぎました。あんまり急ぎすぎたのでそれはながくつゞきませんでした。雪がまったくひどくなって来た方も行く方もまるで見えず二人のからだもまっ白になりました。そして楢夫《ならを》が泣いていきなり一郎にしがみつきました。
「戻るが、楢夫。戻るが。」一郎も困ってさう云ひながら来た下の方を一寸《ちょっと》見ましたがとてももう戻ろうとは思はれませんでした。それは来た方がまるで灰いろで穴のやうにくらく見えたのです。それにくらべては峠の方は白く明るくおまけに坂の頂上だってもうぢきでした。そこまでさへ行けばあとはもう十町もずうっと丘の上で平らでしたし来るときは山鳥も何べんも飛び立ち灌木《くわんぼく》の赤や黄いろの実もあったのです。
「さあもう一あしだ。歩《あ》べ。上まで行げば雪も降ってなぃしみぢも平らになる。歩べ、怖《お》っかなぐなぃはんて歩べ。あどがらあの人も馬ひで来るしそれ、泣がなぃで、今度ぁゆっくり歩べ。」一郎は楢夫の顔をのぞき込んで云ひました。楢夫は涙をふいてわらひました。楢夫の頬《ほほ》に雪のかけらが白くついてすぐ溶けてなくなったのを一郎はなんだか胸がせまるやうに思ひました。一郎が今度は先に立ってのぼりました。みちももうそんなにけはしくはありませんでしたし雪もすこし薄くなったやうでした。それでも二人の雪沓《ゆきぐつ》は早くも一寸も埋まりました。
だんだんいたゞきに近くなりますと雪をかぶった黒いゴリゴリの岩がたびたびみちの両がはに出て来ました。
二人はだまってなるべく落ち着くやうにして一足づつのぼりました。一郎はばたばた毛布をうごかしてからだから雪をはらったりしました。
そしていゝことはもうそこが峠のいたゞきでした。
「来た来た。さあ、あどぁ平らだぞ、楢夫。」
一郎はふりかへって見ました。楢夫は顔をまっかにしてはあはあしながらやっと安心したやうにわらひました。けれども二人の間にもこまかな雪がいっぱいに降ってゐました。
「馬もきっと坂半分ぐらゐ登ったな。叫んで見べが。」
「うん。」
「いゝが、一二三、ほおお。」
声がしんと空へ消えてしまひました。返事もなくこだまも来ずかへってそらが暗くなって雪がどんどん舞ひおりるばかりです。
「さあ、歩《あ》べ。あと三十分で下りるにい。」
一郎はまたあるきだしました。
にはかに空のほうでヒィウと鳴って風が来ました。雪はまるで粉のやうにけむりのやうに舞ひあがりくるしくて息もつかれずきもののすきまからはひやひやとからだにはひりました。兄弟は両手を顔にあてて立ちどまってゐましたがやっと風がすぎたので又あるき出さうとするときこんどは前より一そうひどく風がやって来ました。その音はおそろしい笛のやう、二人のからだも曲げられ足もとをさらさら雪の横にながれるのさへわかりました。
たうげのいたゞきはまったくさっき考へたのとはちがってゐたのです。楢夫はあんまりこゝろぼそくなって一郎にすがらうとしました。またうしろをふりかへっても見ました。けれども一郎は風がやむとすぐ歩き出しましたし、うしろはまるで暗く見えましたから楢夫はほんたうに声を立てないで泣くばかりよちよち兄に追ひ付いて進んだのです。
雪がもう沓《くつ》のかゝと一杯でした。ところどころには吹き溜《だま》りが出来てやっとあるけるぐらゐでした。それでも一郎はずんずん進みました。楢夫もそのあしあとを一生けん命ついて行きました。一郎はたびたびうしろをふりかへってはゐましたがそれでも楢夫はおくれがちでした。風がひゅうと鳴って雪がぱっとつめたいけむりをあげますと、一郎は少し立ちどまるやうにし楢夫は小刻みに走って兄に追ひすがりました。
けれどもまだその峯みちを半分も来ては居りませんでした。吹きだまりがひどく大きくなってたびたび二人はつまづきました。
一郎は一つの吹きだまりを越えるとき、思ったより雪が深くてたうとう足をさらはれて倒れました。一郎はからだや手やすっかり雪になって軋《きし》るやうに笑って起きあがりましたが楢夫はうしろに立ってそれを見てこはさに泣きました。
「大丈夫だ。楢夫、泣ぐな。」一郎は云ひながら又あるきました。けれどもこんどは楢夫がころびました。そして深く雪の中に手を入れてしまって急に起きあがりもできずおじぎのときのやうに頭をさげてそのまゝ泣いてゐたのです。一郎はすぐ走り戻ってだき起しました。そしてその手の雪をはらってやりそれから、
「さあも少しだ。歩げるが。」とたづねました。
「うん」と楢夫は云ってゐましたがその眼はなみだで一杯になりじっと向ふの方を見、口はゆがんで居りました。
雪がどんどん落ちて来ます。それに風が一そうはげしくなりました。二人は又走り出しましたけれどももうつまづくばかり一郎がころび楢夫がころびそれにいまはもう二人ともみちをあるいてるのかどうか前無かった黒い大きな岩がいきなり横の方に見えたりしました。
風がまたやって来ました。雪は塵《ちり》のやう砂のやうけむりのやう楢夫はひどくせき込んでしまひました。
そこはもうみちではなかったのです。二人は大きな黒い岩につきあたりました。
一郎はふりかへって見ました。二人の通って来たあとはまるで雪の中にほりのやうについてゐました。
「路まちがった。戻らなぃばわがなぃ。」
一郎は云っていきなり楢夫の手をとって走り出さうとしましたがもうたゞの一足ですぐ雪の中に倒れてしまひました。
楢夫はひどく泣きだしました。
「泣ぐな。雪はれるうぢ此処《こご》に居るべし泣ぐな。」一郎はしっかりと楢夫を抱いて岩の下に立って云ひました。
風がもうまるできちがひのやうに吹いて来ました。いきもつけず二人はどんどん雪をかぶりました。
「わがなぃ。わがなぃ。」楢夫が泣いて云ひました。その声もまるでちぎるやうに風が持って行ってしまひました。一郎は毛布をひろげてマントのまゝ楢夫《ならを》を抱きしめました。
一郎はこのときはもうほんたうに二人とも雪と風で死んでしまふのだと考えてしまひました。いろいろなことがまるでまはり燈籠《どうろう》のやうに見えて来ました。正月に二人は本家《ほんけ》に呼ばれて行ってみんながみかんをたべたとき楢夫がすばやく一つたべてしまっても一つを取ったので一郎はいけないといふやうにひどく目で叱《しか》ったのでした、そのときの楢夫の霜やけの小さな赤い手などがはっきり一郎に見えて来ました。いきが苦しくてまるでえらえらする毒をのんでゐるやうでした。一郎はいつか雪の中に座ってしまってゐました。そして一そう強く楢夫を抱きしめました。
三、うすあかりの国
けれどもけれどもそんなことはまるでまるで夢のやうでした。いつかつめたい針のやうな雪のこなもなんだかなまぬるくなり楢夫もそばに居なくなって一郎はたゞひとりぼんやりくらい藪《やぶ》のやうなところをあるいて居りました。
そこは黄色にぼやけて夜だか昼だか夕方かもわからずよもぎのやうなものがいっぱいに生えあちこちには黒いやぶらしいものがまるでいきもののやうにいきをしてゐるやうに思はれました。
一郎は自分のからだを見ました。そんなことが前からあったのか、いつかからだには鼠《ねずみ》いろのきれが一枚まきついてあるばかりおどろいて足を見ますと足ははだしになってゐて今までもよほど歩いて来たらしく深い傷がついて血がだらだら流れて居りました。それに胸や腹がひどく疲れて今にもからだが二つに折れさうに思はれました。一郎はにはかにこはくなって大声に泣きました。
けれどもそこはどこの国だったのでせう。ひっそりとして返事もなく空さへもなんだかがらんとして見れば見るほど変なおそろしい気がするのでした。それににはかに足が灼《や》くやうに傷《いた》んで来ました。
「楢夫は。」ふっと一郎は思ひ出しました。
「楢夫ぉ。」一郎はくらい黄色なそらに向って泣きながら叫びました。
しいんとして何の返事もありませんでした。一郎はたまらなくなってもう足の痛いのも忘れてはしり出しました。すると俄《には》かに風が起って一郎のからだについてゐた布はまっすぐにうしろの方へなびき、一郎はその自分の泣きながらはだしで走って行ってぼろぼろの布が風でうしろへなびいてゐる景色を頭の中に考へて一そう恐ろしくかなしくてたまらなくなりました。
「楢夫ぉ。」一郎は又叫びました。
「兄《あい》※[#小書き平仮名な、255−15]。」かすかなかすかな声が遠くの遠くから聞えました。一郎はそっちへかけ出しました。そして泣きながら何べんも「楢夫ぉ、楢夫ぉ。」と叫びました。返事はかすかに聞えたり又返事したのかどうか聞えなかったりしました。
一郎の足はまるでまっ赤になってしまひました。そしてもう痛いかどうかもわからず血は気味悪く青く光ったのです。
一郎ははしってはしって走りました。
そして向ふに一人の子供が丁度風で消えようとする蝋燭《らふそく》の火のやうに光ったり又消えたりぺかぺかしてゐるのを見ました。
それが顔に両手をあてて泣いてゐる楢夫《ならを》でした。一郎はそばへかけよりました。そしてにはかに足がぐらぐらして倒れまし
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