けて行くだけ一語も云ふものがありませんでした。倒れた子はしばらくもだえてゐましたがそれでもいつかさっきの足の痛みなどは忘れたやうに又よろよろと立ちあがるのでした。
 一郎はもう行くにも戻るにも立ちすくんでしまひました。俄《には》かに楢夫が眼を開いて
「お父さん。」と高く叫んで泣き出しました。すると丁度下を通りかかった一人のその恐ろしいものはそのゆがんだ赤い眼をこっちに向けました。一郎は息もつまるやうに思ひました。恐ろしいものはむちをあげて下から叫びました。
「そこらで何をしてるんだ。下りて来い。」
 一郎はまるでその赤い眼に吸ひ込まれるやうな気がしてよろよろ二三歩そっちへ行きましたがやっとふみとまってしっかり楢夫を抱きました。その恐ろしいものは頬《ほほ》をぴくぴく動かし歯をむき出して咆《ほ》えるやうに叫んで一郎の方に登って来ました。そしていつか一郎と楢夫とはつかまれて列の中に入ってゐたのです。ことに一郎のかなしかったことはどうしたのか楢夫が歩けるやうになってはだしでその痛い地面をふんで一郎の前をよろよろ歩いてゐることでした。一郎はみんなと一緒に追はれてあるきながら何べんも楢夫の名を低く呼びました。けれども楢夫はもう一郎のことなどは忘れたやうでした。たゞたびたびおびえるやうにうしろに手をあげながら足の痛さによろめきながら一生けん命歩いてゐるのでした。一郎はこの時はじめて自分たちを追ってゐるものは鬼といふものなこと、又楢夫などに何の悪いことがあってこんなつらい目にあふのかといふことを考へました。そのとき楢夫がたうとう一つの赤い稜《かど》のある石につまづいて倒れました。鬼のむちがその小さなからだを切るやうに落ちました。一郎はぐるぐるしながらその鬼の手にすがりました。
「私を代りに打って下さい。楢夫はなんにも悪いことがないのです。」
 鬼はぎょっとしたやうに一郎を見てそれから口がしばらくぴくぴくしてゐましたが大きな声で斯《か》う云ひました。その歯がギラギラ光ったのです。
「罪はこんどばかりではないぞ。歩け。」
 一郎はせなかがシィンとしてまはりがくるくる青く見えました。それからからだ中からつめたい汗が湧《わ》きました。
 こんなにして兄弟は追はれて行きました。けれどもだんだんなれて来たと見えて二人ともなんだか少し楽になったやうにも思ひました。ほかの人たちの傷ついた足や倒れる
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