な牧師の意識から
ぐんぐんものが消えて行くとは情ない
 (いやあ 奇遇ですな)
 (おお 赤鼻紳士
  たうとう犬がおつかまりでしたな)
 (ありがたう しかるに
  あなたは一体どうなすつたのです)
 (上着をなくして大へん寒いのです)
 (なるほど はてな
  あなたの上着はそれでせう)
 (どれですか)
 (あなたが着ておいでになるその上着)
 (なるほど ははあ
  真空のちよつとした奇術《ツリツク》ですな)
 (えゝ さうですとも
  ところがどうもをかしい
  それはわたしの金鎖ですがね)
 (えゝどうせその泥炭の保安掛りの作用です)
 (ははあ 泥炭のちよつとした奇術《ツリツク》ですな)
 (さうですとも
  犬があんまりくしやみをしますが大丈夫ですか)
 (なあにいつものことです)
 (大きなもんですな)
 (これは北極犬です)
 (馬の代りには使へないんですか)
 (使へますとも どうです
  お召しなさいませんか)
 (どうもありがたう
  そんなら拝借しますかな)
 (さあどうぞ)
おれはたしかに
その北極犬のせなかにまたがり
犬神のやうに東へ歩き出す
まばゆい緑のしばくさだ
おれたちの影は青い沙漠|旅行《りよかう》
そしてそこはさつきの銀杏《いてふ》の並樹
こんな華奢な水平な枝に
硝子のりつぱなわかものが
すつかり三角になつてぶらさがる
[#地付き]※[#始め二重パーレン、1−2−54]一九二二、五、一八※[#終わり二重パーレン、1−2−55]
[#改ページ]

  蠕虫舞手《アンネリダタンツエーリン》


 (えゝ 水ゾルですよ
  おぼろな寒天《アガア》の液ですよ)
日は黄金《きん》の薔薇
赤いちひさな蠕虫《ぜんちゆう》が
水とひかりをからだにまとひ
ひとりでをどりをやつてゐる
 (えゝ 8《エイト》 γ《ガムマア》 e《イー》 6《スイツクス》 α《アルフア》[#8からαまでアラベスクの飾り文字。以下同様]
  ことにもアラベスクの飾り文字)
羽むしの死骸
いちゐのかれ葉
真珠の泡に
ちぎれたこけの花軸など
 (ナチラナトラのひいさまは
  いまみづ底のみかげのうへに
  黄いろなかげとおふたりで
  せつかくをどつてゐられます
  いゝえ けれども すぐでせう
  まもなく浮いておいででせう)
赤い蠕虫舞手《アンネリダタンツエーリン》は
とがつた二つの耳をもち
燐光珊瑚の環節に
正しく飾る真珠のぼたん
くるりくるりと廻つてゐます
 (えゝ 8《エイト》 γ《ガムマア》 e《イー》 6《スイツクス》 α《アルフア》
  ことにもアラベスクの飾り文字)
背中きらきら燦《かがや》いて
ちからいつぱいまはりはするが
真珠もじつはまがひもの
ガラスどころか空気だま
 (いゝえ それでも
  エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
  ことにもアラベスクの飾り文字)
水晶体や鞏膜《きようまく》の
オペラグラスにのぞかれて
をどつてゐるといはれても
真珠の泡を苦にするのなら
おまへもさつぱりらくぢやない
   それに日が雲に入つたし
   わたしは石に座つてしびれが切れたし
   水底の黒い木片は毛虫か海鼠《なまこ》のやうだしさ
   それに第一おまへのかたちは見えないし
   ほんとに溶けてしまつたのやら
それともみんなはじめから
おぼろに青い夢だやら
 (いゝえ あすこにおいでです おいでです
  ひいさま いらつしやいます
  8《エイト》 γ《ガムマア》 e《イー》 6《スイツクス》 α《アルフア》
  ことにもアラベスクの飾り文字)
ふん 水はおぼろで
ひかりは惑ひ
虫は エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
   ことにもアラベスクの飾り文字かい
   ハツハツハ
 (はい まつたくそれにちがひません
   エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
   ことにもアラベスクの飾り文字)
[#地付き](一九二二、五、二〇)
[#改丁、ページの左右中央に]

       小岩井農場

[#改ページ]

  小岩井農場


   パート一[#ゴシック体]

わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた
そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ
けれどももつとはやいひとはある
化学の並川さんによく肖《に》たひとだ
あのオリーブのせびろなどは
そつくりおとなしい農学士だ
さつき盛岡のていしやばでも
たしかにわたくしはさうおもつてゐた
このひとが砂糖水のなかの
つめたくあかるい待合室から
ひとあしでるとき……わたくしもでる
馬車がいちだいたつてゐる
馭者《ぎよしや》がひとことなにかいふ
黒塗りのすてきな馬車だ
光沢消《つやけ》しだ
馬も上等のハツクニー
このひとはかすかにうなづき
それからじぶんといふ小さな荷物を
載つけるといふ気軽《きがる》なふうで
馬車にのぼつてこしかける
 (わづかの光の交錯《かうさく》だ)
その陽《ひ》のあたつたせなかが
すこし屈んでしんとしてゐる
わたくしはあるいて馬と並ぶ
これはあるいは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
乗らなくたつていゝのだが
これから五里もあるくのだし
くらかけ山の下あたりで
ゆつくり時間もほしいのだ
あすこなら空気もひどく明瞭で
樹でも艸でもみんな幻燈だ
もちろんおきなぐさも咲いてゐるし
野はらは黒ぶだう酒《しゆ》のコツプもならべて
わたくしを款待するだらう
そこでゆつくりとどまるために
本部まででも乗つた方がいい
今日ならわたくしだつて
馬車に乗れないわけではない
 (あいまいな思惟の蛍光《けいくわう》
  きつといつでもかうなのだ)
もう馬車がうごいてゐる
 (これがじつにいゝことだ
  どうしようか考へてゐるひまに
  それが過ぎて滅《な》くなるといふこと)
ひらつとわたくしを通り越す
みちはまつ黒の腐植土で
雨《あま》あがりだし弾力もある
馬はピンと耳を立て
その端《はじ》は向ふの青い光に尖り
いかにもきさくに馳けて行く
うしろからはもうたれも来ないのか
つつましく肩をすぼめた停車|場《ば》と
新開地風の飲食店《いんしよくてん》
ガラス障子はありふれてでこぼこ
わらぢや sun−maid のから函や
夏みかんのあかるいにほひ
汽車からおりたひとたちは
さつきたくさんあつたのだが
みんな丘かげの茶褐部落や
繋《つなぎ》あたりへ往くらしい
西にまがつて見えなくなつた
いまわたくしは歩測のときのやう
しんかい地ふうのたてものは
みんなうしろに片|附《づ》けた
そしてこここそ畑になつてゐる
黒馬が二ひき汗でぬれ
犁《プラウ》をひいて往つたりきたりする
ひはいろのやはらかな山のこつちがはだ
山ではふしぎに風がふいてゐる
嫩葉《わかば》がさまざまにひるがへる
ずうつと遠くのくらいところでは
鶯もごろごろ啼いてゐる
その透明な群青のうぐひすが
 (ほんたうの鶯の方はドイツ読本の
  ハンスがうぐひすでないよと云つた)
馬車はずんずん遠くなる
大きくゆれるしはねあがる
紳士もかろくはねあがる
このひとはもうよほど世間をわたり
いまは青ぐろいふちのやうなとこへ
すましてこしかけてゐるひとなのだ
そしてずんずん遠くなる
はたけの馬は二ひき
ひとはふたりで赤い
雲に濾《こ》された日光のために
いよいよあかく灼《や》けてゐる
冬にきたときとはまるでべつだ
みんなすつかり変つてゐる
変つたとはいへそれは雪が往き
雲が展《ひら》けてつちが呼吸し
幹や芽のなかに燐光や樹液《じゆえき》がながれ
あをじろい春になつただけだ
それよりもこんなせはしい心象の明滅をつらね
すみやかなすみやかな万法流転《ばんぼふるてん》のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起《けいき》するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう
ほんたうにこのみちをこの前行くときは
空気がひどく稠密で
つめたくそしてあかる過ぎた
今日は七つ森はいちめんの枯草《かれくさ》
松木がをかしな緑褐に
丘のうしろとふもとに生えて
大へん陰欝にふるびて見える

   パート二[#ゴシック体]

たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるし
雨はけふはだいぢやうぶふらない
しかし馬車もはやいと云つたところで
そんなにすてきなわけではない
いままでたつてやつとあすこまで
ここからあすこまでのこのまつすぐな
火山灰のみちの分だけ行つたのだ
あすこはちやうどまがり目で
すがれの草|穂《ぼ》もゆれてゐる
 (山は青い雲でいつぱい 光つてゐるし
  かけて行く馬車はくろくてりつぱだ)
ひばり ひばり
銀の微塵《みぢん》のちらばるそらへ
たつたいまのぼつたひばりなのだ
くろくてすばやくきんいろだ
そらでやる Brownian movement
おまけにあいつの翅《はね》ときたら
甲虫のやうに四まいある
飴いろのやつと硬い漆ぬりの方と
たしかに二重《ふたへ》にもつてゐる
よほど上手に鳴いてゐる
そらのひかりを呑みこんでゐる
光波のために溺れてゐる
もちろんずつと遠くでは
もつとたくさんないてゐる
そいつのはうははいけいだ
向ふからはこつちのやつがひどく勇敢に見える
うしろから五月のいまごろ
黒いながいオーヴアを着た
医者らしいものがやつてくる
たびたびこつちをみてゐるやうだ
それは一本みちを行くときに
ごくありふれたことなのだ
冬にもやつぱりこんなあんばいに
くろいイムバネスがやつてきて
本部へはこれでいいんですかと
遠くからことばの浮標《ブイ》をなげつけた
でこぼこのゆきみちを
辛うじて咀嚼《そしやく》するといふ風にあるきながら
本部へはこれでいゝんですかと
心細《こころぼそ》さうにきいたのだ
おれはぶつきら棒にああと言つただけなので
ちやうどそれだけ大《たい》へんかあいさうな気がした
けふのはもつと遠くからくる

   パート三[#ゴシック体]

もう入口だ〔小岩井農場〕
 (いつものとほりだ)
混《こ》んだ野ばらやあけびのやぶ
〔もの売りきのことりお断り申し候〕
 (いつものとほりだ ぢき医院もある)
〔禁猟区〕 ふん いつものとほりだ
小さな沢と青い木《こ》だち
沢では水が暗くそして鈍《にぶ》つてゐる
また鉄ゼルの fluorescence
向ふの畑《はたけ》には白樺もある
白樺は好摩《かうま》からむかふですと
いつかおれは羽田県属に言つてゐた
ここはよつぽど高いから
柳沢つづきの一帯だ
やつぱり好摩にあたるのだ
どうしたのだこの鳥の声は
なんといふたくさんの鳥だ
鳥の小学校にきたやうだ
雨のやうだし湧いてるやうだ
居る居る鳥がいつぱいにゐる
なんといふ数だ 鳴く鳴く鳴く
Rondo Capriccioso
ぎゆつくぎゆつくぎゆつくぎゆつく
あの木のしんにも一ぴきゐる
禁猟区のためだ 飛びあがる
  (禁猟区のためでない ぎゆつくぎゆつく)
一ぴきでない ひとむれだ
十疋以上だ 弧をつくる
 (ぎゆつく ぎゆつく)
三またの槍の穂 弧をつくる
青びかり青びかり赤楊《はん》の木立
のぼせるくらゐだこの鳥の声
  (その音がぼつとひくくなる
   うしろになつてしまつたのだ
   あるいはちゆういのりずむのため
   両方ともだ とりのこゑ)
木立がいつか並樹になつた
この設計は飾絵《かざりゑ》式だ
けれども偶然だからしかたない
荷馬車がたしか三台とまつてゐる
生《なま》な松の丸太がいつぱいにつまれ
陽《ひ》がいつかこつそりおりてきて
あたらしいテレピン油の蒸気圧《じようきあつ》
一台だけがあるいてゐる
けれどもこれは樹や枝のかげでなくて
しめつた黒い腐植質と
石竹《せきちく》いろの花のかけら
さくらの並樹になつたのだ
こんなしづかなめまぐるしさ

この荷馬車にはひとがついてゐない
馬は払ひ下げの立派なハツクニー
脚のゆれるのは年老つたため
 (おい ヘングスト しつかりしろよ
  三日月みたいな眼つきをして
  おまけになみだがいつぱいで
  陰
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