降って来る。
帆綱の小さな電燈がいま移転し
怪しくも点ぜられたその首燈、
実にいちめん霧がぼしゃぼしゃ降ってゐる。
降ってゐるよりは湧いて昇ってゐる。
あかしがつくる青い光の棒を
超絶顕微鏡の下の微粒子のやうに
どんどんどんどん流れてゐる。
 (根室の海温と金華山沖の海温
  大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)
帆綱の影はぬれたデックに落ち
津軽海峡のときと同じどらがいま鳴り出す。
下の船室の前の廊下を通り
上手に銅鑼は擦られてゐる。
 鉛筆がずゐぶんす早く
 小刀をあてない前に削げた。
 頑丈さうな赤髯の男がやって来て
 私の横に立ちその影のために
 私の鉛筆の心はうまく折れた。
 こんな鉛筆はやめてしまへ
 海へ投げることだけは遠慮して
 黄いろのポケットにしまってしまへ。
霧がいっそうしげくなり
私の首すぢはぬれる。
浅黄服の若い船員がたのしさうに走って来る。
「雨が降って来たな。」
「イヽス。」
「イヽスて何だ。」
「雨ふりだ、雨が降って来たよ。」
「瓦斯だよ、霧だよ、これは。」
とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
もしまちがひであったなら
究竟の幸福にいたらないなら
いままっすぐにやって来て
私にそれを知らせて呉れ。
みんなのほんたうの幸福を求めてなら
私たちはこのまゝこのまっくらな
海に封ぜられても悔いてはいけない。
  (おまへがこゝへ来ないのは
   タンタジールの扉のためか、
   それは私とおまへを嘲笑するだらう。)
呼子が船底の方で鳴り
上甲板でそれに応へる。
それは汽船の礼儀だらうか。
或いは連絡船だといふことから
汽車の作法をとるのだらうか。
霧はいまいよいよしげく
舷燈の青い光の中を
どんなにきれいに降ることか。
稚内のまちの灯は移動をはじめ
たしかに船は進み出す。
この空は広重のぼかしのうす墨のそら
波はゆらぎ汽笛は深くも深くも吼える。
この男は船長ではないのだらうか。
 (私を自殺者と思ってゐるのか。
  私が自殺者でないことは
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