ひ、吸付いてゐた疣だらけの手は、ぐつたりと力なく海の底に落ちて、大きな胴体はまるで開いた落下傘《らくかさん》みたやうに、ふわりふわりと浮びました。
勝つた海豚は、まるで何事も起らなかつたものゝやうに、どこかへ悠々《いういう》と泳いで去りました。
今太郎君は初めて、海の底の物凄《ものすご》い戦ひを見せられたのでした。しかし、こんなものはお茶の子です。海の底にはもつともつと恐しい危険が隠れてゐます。
四
さて、かうして潜水を稽古《けいこ》してゐるうち、さすがに名人|太海《ふとみ》三|之助《のすけ》の子だけに、忽《たちま》ちのうちに、今太郎《いまたらう》君は一人前の――いや、子供でありながら、大人にまさるほどの立派な潜水夫になりました。そこで、もうお父さんの附添《つきそ》ひもなく、ひとりで海の底へもぐつて、どし/\真珠貝をとつてゐました。すると、ある日のこと、せつせと仕事をしてゐると、頭の上が俄《にはか》に暗くなつたので、びつくりして顔をあげると、沢山の小魚が、まるで黒い雲のやうにみつしりと群をなして、大急ぎで頭の上を通過し、珊瑚礁《さんごせう》や、海藻《かいさう》の藪《やぶ》にあわてゝ隠れました。
「おやツ! 変だぞ!」
今太郎君はすぐさう感じました。それは大きな魚、たとへば、恐しい鱶《ふか》などがあらはれたときには、こんな沢山の魚が騒いで、逃げ隠れするものだといつもお父さんや年取つた潜水夫などに聞いてゐたからです。
「やあ大変だ!」
今太郎君の考は当りました。
自分の前方五、六メートルばかりの処に、頭の丸く突出て、胸の辺に口のついてゐる恐しく大きな鱶が、その小さな凄《すご》い目で今太郎君の方をじつと睨《にら》めてゐました。
「あツ鱶だ、鱶だ!」と、思はず大声をあげました、しかし、海の底にひとりゐて、潜水|兜《かぶと》をかぶつてゐるのですから、誰《だれ》に聞える筈《はず》もなく、只《ただ》自分の耳ががん/\鳴つただけです。
今太郎君は、我知らず、走つて逃げようとしました。けれども、それは無益だといふことをすぐ感づきました。といふのは、こちらは厚い潜水服を着、重い鉛底の靴をはいた上に、長い通気管と、生命《いのち》綱を曳《ひ》いてゐて、大へん自由が妨げられてゐますから、下手に走つたりなぞすると、管が切れたり、綱が何かにからみついたりして、却《かへ》つて生命が危ないのです。それに鱶の泳ぐのはとても速いのですから、すぐ追つかれてしまひます。
それでは上の船へ合図をして、引上げて貰《もら》はうとすれば鱶は、待つてゐましたとばかり、くるりと仰向《あふむ》けに引つくり返り、下の方から足をがつぷりと喰《く》ひ切つてしまふかも知れません。もう絶体絶命です。仕方なしに、かなはないまでもと、今太郎君は又もや護身用の大ナイフを握りしめて、そこにじつと立つてゐました。
でも、鱶の方でも、妙な、丸つこい、てか/\光る禿頭《はげあたま》に、大きな三つ目をもつた怪物が立つてゐるものですから、さう、たやすくは飛ついて来ません。相変らず、小さな凄い目で、こちらを睨んでゐるつきりです。けれども、よく/\見てゐると、その大きな鰭《ひれ》がほんの僅《わづ》かづつ動いて、猛悪な魚の形はだん/\明瞭になつて来ます。確《たしか》にじり/\近寄つて来るのです。
そのうち今太郎君は、むき出しになつてゐる両方の手が、鱶の食慾《しよくよく》をそゝり立てはしまいかと気遣つたので、そつと後《うしろ》の方へ廻《まは》しました。
鱶はいよ/\近寄つて来ました。余り恐しいので、今太郎君は目をつぶらうとしましたが、どうしてもつぶれません。鱶との距離、あと三メートル、あと、二メートル、あと一メートル! 今太郎君の生命《いのち》は風前の燈火《ともしび》です!
と、その頭の中に、海底で鱶に襲はれたときには、すばやく仰向けに泥《どろ》の中に仆《たふ》れ、手足をばた/\させて、そこらを濁してしまへば遁《のが》れることが出来るといふ話を思ひ出しました。
「さうだ。さうしよう!」
が、ちと遅かつた。今まで、ほんのそろ/\近寄つて来た鱶はこの時、急に勢ひづいて、突進して来ました。そしてその恐しい鼻尖《はなさき》を、ごつん[#「ごつん」に傍点]と潜水兜前面の硝子《がらす》にぶつつけましたから、今太郎君はわツ[#「わツ」に傍点]と叫んで、どつかり尻餅《しりもち》をつき、めくら滅法に大ナイフを振廻しました。
もツくり! もツくり!
俄に泥の雲があたりを立てこめて、何もかも見えなくなりました。ちやうど今太郎君がしようとしたことを、鱶が手伝つたやうなものでした。何が幸になるか分りません。
恐しさに胆《きも》をうばはれた今太郎君は、無我夢中でじたばたするうち、ふと何やら固いものに
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