また憎みといふもそは関するところでない。そは一本質の只形を異にした現はれに過ぎないのだから。ツウルゲーニエフが「煙」の中で、誰だつたかに「私は限りなく露国を愛するが故に、限りなく露国を憎む」と言はしたやうに、生きんとする生命の促進から起つた執着があればこそ、厭人も厭世も、憤りも憎みもあるのだ。若しその慾がなくなつたら、そのときこそは生きてはゐられないときである。
恁《こ》う考へたとき自分が生きてゐること、憎みながら、厭ひながらも生きてゐる理由が分つたやうな気がした。恥づることも、恐るゝこともいらないやうに思つた。自分が世を厭ひ、憎むといふことはその実、生に対する執着が深いからである。憎むことが深ければ深い程、生命の力は強いのである。それは矢張り愛ではないかと或は人はいふかも知れない。
或はさうであらう。それは視点の相違である、愛を力説する人は、金を砂中に拾ひ上げる人だ。憎みを主張する人は鉱石を熔炉に投じて、金塊から不純の分子を潔める人だ。何れにしても同じことだ。只何れにするも不徹底が一番にいけない。その時愛は偽善となり、憎みはカリカチユアとなる。自分は信ず何時何処でも偉大な人の多く
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