a は英獨語にも幾度も飜譯されました。それまでスウェデンは軍事的政治的に、中央歐羅巴に勢力をふるつたことはありましたが、文學は一向駄目であつたのを、テグネールのおかげで進出することが出來ました。
       十九、反動來る
 斯く盛んなローマン主義に反動が來ました。それは一八七七年にデンマルクの大批評家ゲオルグ・ブランデス Georg Brandes によりフランス流の自然主義が鼓吹されたからであります。ブランデスほどスカンヂナヴィア文學を指導し、またその隱れた寶玉を發見して、内外に紹介した人はほかにありません。キェルケゴォルも、イプセンもハムスン Hamsun も、この人が有力な紹介者の位置に立つてをります。
 そこでデンマルクに自然主義がはひつて、ヤコプセン Jacobsen、ドラックマン Drachman 及びシャンドルフ Schandorph の三大家が出ました。ヤコプセンが最もローマン主義の臭ひのうすい作家で、よく外國にも知られ、ドラックマンは海洋小説家で、後ちにローマン派に復歸し、シャンドルフは最初から、ローマン派と自然派との間に板ばさみになり、ハムレットもどきに to be or not to be と苦しみましたが、その代表作『中心なく』Uden midtpunkt は流石に、フランス自然主義大家の筆を偲ばせるものがあります。その他ノーベル賞を受けたギェレルウプ Gjellerup、怪奇な筆を弄することロシアのアンドレエフに似たヘルマン・バング Herman Bang などありますが、此處には申しません。
       二十、スウェデンの自然主義
 スウェデンの方では、一八七九年に、アウグスト・ストリンドベーリ August Strindberg が『赤い部屋』Raada rummet を出したのが自然主義の始まりで、そのおかげで、スウェデン文學が一新され、エィエルスタム Geijerstam、ボート 〔Ba&a&th〕 オーラ・ハンソン Ola Hanson などが、その後を追ふやうになりました。ストリンドベーリについてはその劇の大部分と、小説の若干とが飜譯されて、いろいろ紹介もされてをりますから、私は此處には別に申し上げません。只一つ言ひたいことは、彼の自然主義的、或は社會主義的、コスモポリタンな一面だけより見ない在來の行き方に一歩を進め、スウ
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