郷の観を遮《さえぎ》るゆえに隠しの森と呼ばれ、対《むこ》う塘《つつみ》の上に老いたる一樹の柳は、往《ゆ》くも送るもこれより別るるゆえに名残《なご》りの柳と称《とな》えられぬ、いと広き磧の中央、塵芥しみて黄色になれるは、送別の跡の絶えぬ証拠にして、周辺の石にシロジロと古苔《ふるごけ》蒸せるは、無事を祝して濺《そそ》ぎし酒のかびなり、岸辺に近き砂礫《されき》の間、離別の涙|揮《ふる》いし跡には、青草いかに生い茂れるよ、行人は皆名残りの柳の根を削りてその希望を誌《しる》して往けども、再びここに歓迎せらるるもの、昔より幾人もなかりしぞとよ、
 早や酒温まり肉煮えたり、さりながら一行はまだ盃《さかずき》を挙げざりき、人々は皆気を焦《いら》ちて越し方を見回れり、はるかの塘《つつみ》に勇蔵夫婦の影ようやく顕われぬ、彼らは暫時柳の蔭に坐し顔を見合わせ言葉なし、泣きはらしたる阿園が両眼ムラムラと紅線走り手巾持てる手も今は早や拭く力なければ涙は滴々|湛《たた》えて落ちぬ、磧よりは手を拍《う》ち声を揚げ手巾を振りて此方を呼びたり、
 もはや語る間もなきかと思えば、阿園は言うべき語を知らず手拭《てぬぐい》を顔
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