ずかた》の空もいと穏やかにぞ見えたる、
いと長き旅に疲れし春の日が、その薄き光線を曳《ひ》きつつ西方の峰を越えしより早や一時間余も過ぎぬ、遠寺に打ちたる入相《いりあい》の鐘の音《ね》も今は絶えて久しくなりぬ、夕《ゆうべ》の雲は峰より峰をつらね、夜の影もトップリと圃《はたけ》に布《し》きぬ、麓《ふもと》の霞《かすみ》は幾処の村落を鎖《とざ》しつ、古門《こも》村もただチラチラと散る火影によりてその端の人家を顕《あら》わすのみ、いかに静かなる鄙《ひな》の景色よ、いかにのどかなる野辺の夕暮よ、ここに音するものとてはただ一条の水夜とも知らで流るるあるのみ、それすら世界の休息を歌うもののごとく、スヤスヤと眠りを誘いぬ、そのやや上流に架けたる独木橋《まるきばし》のあたり、ウド闇《ぐら》き柳の蔭《かげ》に一軒の小屋あり、主は牧勇蔵と言う小農夫、この正月|阿園《おその》と呼べる隣村の少女を娶《めと》りて愛の夢に世を過ぎつつ、この夕もまた黄昏《たそがれ》より戸を締めて炉の火影のうちに夫婦向きあい楽しき夕餉《ゆうげ》を取りおれり、やがて食事の了《おわ》るころ、戸の外に人の声あり「兄貴はうちにおらるるや」と
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