は半紙十枚と換えくれと請いたれども承知せず、大切に秘蔵して自分さえついに一度も使用せざりし時のこと、思えば昨日のようなれど今は返らぬ昔語となりぬ」と、思わず一滴の涙を浮めぬ、
「行き届きたる卿《おんみ》の情しみじみかたじけのう存ずるぞかし、して人間はただ前の方に進むばかり跡には返らず、まして墓に入ればそれまでのこと」と、阿園も太息《といき》し、暫時はともに無言なりき、久しく隠れたる尼の発心、再び寡婦の胸に浮びしはこの沈黙の折にてありし、さりながら機会すでに過ぎ感情の潮《うしお》またすでに退き一方には里方の頑固《がんこ》、他方には道なき絶峰、いずれを蹈《ふ》み破るも難《かた》ければ、今はただいつまでもかく寡居《かきょ》していつまでも佐太郎に訪わるるこそせめて世に存《ながら》うる甲斐《かい》ならめ、しかれどもすでに黄金に余れる彼、いつまで妻なくてあるべき、しかして阿園が寡居の日も、早やすでに半ば過ぎぬ、忌満てば到底里方へ帰らねばならぬ身、思いきって彦山に遁《のが》るべきか、かくまで親切なる佐太郎主今さらに別るるも名残り惜し、さらば洞穴まで送りてもらわんか、さほどに迷惑をかけたりとて、到底別るべき世の中、断念して夫の遺言に従い再縁すべきか、決して決して、夫にはいかに誓いしぞ、再縁せば親切なる佐太郎主に遇《あ》い見ることも……恩を報ずることも出来まじ、さらば身をいかにすべきか、尼、寡居、再縁、いずれが最も身のためなるか、阿園は呼びぬ、「佐太郎主」
佐太郎は笑顔を向けたり、「身の上のことを問うも恥かしけれども、妾が身の落着、何とせばよろしからんか」「さればなり、尼になるにはいずれの道も難渋なり、よし彦山に遁るることも、途にして過ちあらばわれが卿を失いたるに異ならず、里方は言わでも許諾はなかるべし、詮方《せんかた》なくば、遺言に身を任するか、この家に寡居するか、二つに一つのほかあるまじ」「卿もさよう思いたまうか」「さようそのほかに詮方もなければ」「さらば早やぜひなきことか」と、阿園は再び大息して、佐太郎の顔をジッと見る、佐太郎もその顔をジッと見たり、やがて日暮るれば佐太郎は暇をつげぬ、
げに彼は阿園を慰むるの務めをもちたりき、阿園はただ彼が入来のみをもて満足せる時にも、彼はなお阿園を喜ばしめんと思えり、彼は亡友の遺物と逸事の、いかにその目的を答えしかを観てひそかに笑みたり、次の日彼は家の床の下を捜《さぐ》りて、乗り崩したる竹馬を寡婦の家に持ちゆきて曰《いわ》く、これは兄貴が十五歳の時大雪の中を競走して勝ちを得たる竹馬なりと、翌日は黒塗りの横笛をもたらしゆき、こは氏神の秋祭に彼が吹きて誉れを得たるものなりと、二三日の後また一個の南天の盆栽を携えゆき、これは彼が生前われより兄費に譲るべく約せしものと、もし阿園が望まんには彼はなお幾個の遺物をも蒐《あつ》むべかりし、されど今は寡婦の満足ようやくに薄らぎ、遺物という詞も夫という詞も、早やその耳に幻力を失いたり、
かくて忌中の三分の二は早や過ぎぬ、佐太郎が阿園を訪うこと、初めの一七日は午前にして、その後は多く午後に来たり、ようやくに夕景となり、このごろはまた朝昼夕の差別もなくなり、時には朝より夕までおりつづけて勇蔵の伝記を叙《の》べたり、しかしてその逸事のすでに尽くるころは、阿園の耳も勇蔵に厭《あ》き、今は佐太郎いねば留守を守る心地し、佐太郎もまた阿園の顔を離れては、己が家も逆旅《げきりょ》のごとく寂しく覚えぬ、
村人はようやくこの謹直者を怪しめり、口さがなき女房らも、チラホラ寡婦の風説を伝え、佐太郎が夜々阿園の家に住むと言うものさえありき、されば意地|汚《きた》なき穴さがし、情人なき嫌《きら》われ者らは、両個《ふたり》の密事を看出《みいだ》して吹聴せんものと、夜々佐太郎が跡をつけ、夜遊びの壮年らも往き還《かえ》りにこの家の様子を窺《うかが》いぬ、かくして一週間も経たれども、何の怪しきこともなく、彼はただ戦場の譚《はなし》、浮世話を阿園に語り聞かせ、夜|更《ふ》くればその家に帰り、かつて午夜過ぐるまでいたることなければ、果ては彼らも心に恥じて口を閉じ、怪しき風評もやや薄らぎぬ、
早や四十九日となりぬ、四十九日短く暮れて明くれば五十日、いよいよ忌の満つる日となれば、阿園がこの家におることも今は一日一夜となりぬ、この家よ、この家はげに阿園がためには幸いなかりし、彼はこの春の始めにこの家に嫁《とつ》ぎ、暮に夫に別れしなり、夫が遠征の百日間は、彼は空しく空閨《くうけい》を守りたりしが、夫を待ち得しと思いし日より、なお五十日の間、寂しき夜を怨《うら》み明かし、なお幾夜かくあるべくありしなり、阿園には夫婦の睦《むつ》みいまだ尽きず、閨《ねや》の温味《ぬくみ》いまだに冷えず、恋の夢ただ見初めたるのみなり
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