ば、裏の圃《はたけ》に大葱《おおねぎ》の三四茎日に蒸されて萎《な》えたるほか、饗応《きょうおう》すべきものとては二葉ばかりの菜蔬《さいそ》もなかりき、法事をせずば仏にも近所にも済まず、営まんには物なければ、彼はいと痛う哀れになり、もはや世に棄てられたるように感ぜり、折々窓より外面を眺めても、村人はただ己《おの》がじしその野に労するのみにて、人には一|把《わ》の菜の慈悲もなかりき、今はジリジリ移りゆく日影を見るに堪えかね、仏壇の前に伏して泣きたり、哀れの寡婦よ、いかばかり悲しかりけん、さりながら慈悲深き弥陀尊《みだそん》はそのままには置き給わず、日影の東に回るや否、情ある佐太郎を遣《つか》わし給えり、彼は瓜《うり》、茄子《なす》、南瓜《かぼちゃ》、大角豆《ささげ》、満ちたる大いなる籃《かご》と五升入りの徳利とを両手に提《さ》げて訪い来たれり、「姐子《あねご》今日は兄貴が一七日、大方法事を営まるることと、今朝寺に案内し、帰るさに三奈木の青物店に立ち寄り、初物品々買うて来ぬ、兄貴は大角豆が好きなりしゆえ、余分に求めしわが寸志、仏前に捧《ささ》げられたし、もしこの籠《かご》一個にて今日の法事の済みもせば、われにもこの上なき本望なり」と、絶望の余にかかる恵みの音ずれあり、ことさら夫が好きの物と聞くからに、感謝の語のすべることも無理にはあらず、「夫に勝る卿《おんみ》の親実、しみじみ嬉しく忘れはせじ」と、
分に過ぎたる阿園が感謝に、佐太郎は気を取り外《はず》せり、彼は満面に笑みの波立て直ちに出で行き、近処に法事の案内をし、帰るさには膳椀《ぜんわん》を借り燗瓶《かんびん》杯洗を調《ととの》え、蓮根《れんこん》を掘り、薯蕷《やまのいも》を掘り、帰り来たって阿園の飯を炊く間に、吸物、平、膾《なます》、煮染《にし》め、天麩羅《てんぷら》等、精進下物の品々を料理し、身一個をふり廻して僕となり婢となり客ともなり主人ともなって働きたり、日暮るれば僧も来たり、父老、女房朋友らの員《かず》も満ち、看経《かんきん》も済み饗応もまた了《おわ》り、客は皆手の行き届きたることを賞《ほ》めて帰れば、涙をもって初めし法事も、佐太郎の尽力をもて満足に済みたり、
阿園は法事済ましてより、日常のこととてはただ午前には墓より寺に詣《まい》り、午後よりは訪いくる佐太郎に慰められ、夜は疾《と》く寝るばかりなりき、佐太郎もまたこの家に以前よりは繁く通いぬ、されど村人は皆彼が謹直なるを思い、この家との旧《ふる》き好《よし》みを思い、勇蔵とともに戦地に赴《おもむ》きしことを思い、勇蔵が亡き後事大小となく皆彼が義務なるを思いつ、ただに彼を怪しまざるのみならず、彼が経験なき壮年の身にしては、頼みなき身を慰むることの行き届けるに、感心したり、阿園はまた二三日ごとに墓の掃除せられ、毎朝己れに先だって線香立ち、花|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《さ》され、花筒の水も新《あら》たまり、寺の御堂にも香の煙|薫《くゆ》らし賽銭《さいせん》さえあがれるを見、また佐太郎が訪い来るごとに、仏前に供えてとて桔梗《ききょう》、蓮華《れんげ》、女郎花《おみなえし》など交る交る贈るを見、わけても徒然《つれづれ》ごとに亡夫の昔語を語るを聞きてこの上のうも満足に思いぬ、「この人までもかくまで亡夫に懐《なつ》きてあるか」と、
そもそも勇蔵は幼なかりしころより、佐太郎とはわけて親しき寺子友達にて、常に佐太郎が家に机を列べたりしゆえ、彼が手習い道具はそのまま佐太郎が家にありき、これまではただその家の邪魔物なりしが、今は彼が縁者のためには、千金の珍宝にも易《か》えがたき遺物となれり、ある日佐太郎は半日家内を捜索して、ことごとく勇蔵が所有に属せし小道具を取り揃《そろ》えて寡婦のもとに背負いゆき、「今日はよきものを持ち来ぬ」とて寡婦の前に卸したり、その黒染めの古板と欠けたる両脚は、牧家数代の古机にして、角潰れ海に蜘蛛《くも》の網かけたる荒砥《あらと》の硯《すずり》は、彼が十歳のとき甘木の祇園《ぎおん》の縁日に買い来しものなり、雨に湿《し》みて色変りところどころ虫|蝕《く》いたる中折半紙に、御家流《おいえりゅう》文字を書きたるは、寅《とら》の年の吉書の手本、台所の曲《ゆが》める窓より剥《は》ぎ来たれる、三行書《みくだりが》きの中奉書は卯《う》の年の七夕《たなばた》、粘墨《ねばずみ》に固まりて反《そ》れたる黒毛に殕《かび》つきたるは吉書七夕の清書の棒筆、矢筈《やはず》に磨滅《まめつ》されたる墨片は、師匠の褒美《ほうび》の清輝閣なり、彼は曰《い》えり、「兄貴がこの墨を頂戴せしそのありがたがりし笑顔、今もなお目にあり、古参の子供らが捻紙《こより》つなぎの文銭もてぜひに買わんと強《し》い、あるい
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