満々たるは、征西将軍が拝受したる菊桐《きくきり》の大勲章よりもその身にとってありがたかるべし、今や故郷に錦《にしき》を装《かざ》り、早や閭樹《りょじゅ》顕われ村見え、己が快楽の場なりし勇蔵が家またすでに十歩の近きにありて、その窓より歓迎する顔さえ見ゆるは、凱歌《がいか》を唱えて凱旋する幾万の兵士の喜びを合わするとも、なお及ぶべくもあらざるべきに、見よこの満足の日に彼の顔の曇れるを、彼が足の躊躇《ちゅうちょ》せるを、彼は窓に近づきぬ、窓の顔は一たび消えて戸をあけて転《まろ》び出でたり、「佐太郎主今がお帰り、して宿の主は」と、
 佐太郎はうちに入り布の包みを卸してまず一杯の水を乞《こ》えり、女房は井より新たに汲《く》み来たり柄杓《ひしゃく》のままにさし出し、「宿の主も一しょにか」と問う、佐太郎は水に気の入り、阿園が問いに何心なくさようと答えつ、後にてハッと愕《おどろ》きたれど駟《し》も舌に及ばざりき、女房は焦《せ》き立てり、「していずこにか立ち寄られてか」「さよう」「いずこに」「否今すぐに帰り来べし、ゆっくりと待たれよ」「さても情なき人の心、いつまで妾に待てよとか、妾は一走り呼びに往かん」と、阿園はあわただしく駈け出でたり、佐太郎は色をかえ、「姐子《あねご》よ呼びに往かれずとも、兄貴は疾《と》くに帰りてある……、ああ、隠すとも隠されぬか」と嘆息しつつ、阿園を見れば、彼はただキョロキョロして家の裏を駈け回り、己が影を逐《お》いてまた立ち回り、「主はいずこに帰ってある」と、憐《あわ》れのものよ彼はまだ夫の不幸に気づかであるなり、
「オオ兄貴はココに」と、佐太郎は布の包み解きもあえず推しやりぬ、女房は解いて見て夢になり、物言わぬ夫の遺筐《いきょう》を、余人の衣類のごとくしばらく折目をさすりておりしが、やがて正気に復《かえ》りし時は、早や包みを懐《いだ》きしめて悶絶《もんぜつ》したり、げに勇蔵は田原坂《たばるざか》の戦官軍大敗の日に、館原の藤吉とともに敵の流れ丸に中《あた》り、重傷を負いて病院に運ばれ、佐太郎を死の枕《まくら》に呼び阿園が再縁のことをくれぐれも頼みて死しぬ、されば佐太郎は気絶したる阿園を呼び回《かえ》して、勇蔵が遺言と死にざまとを語り、彼が命の価なる三十金を渡し、阿園が尼になるべき余儀なき願いに対しては、十分力を添うべきことを約して、哀れの寡婦を涙の海に残して帰りぬ、
 翌朝阿園が里方の父来たり、村人も皆訪い来たれり、父は佐太郎が持ち帰りし三十両を改めて己が手に納め、勇蔵は上より戦場に埋められたれば再び葬式を営むの要なきことを主張し、直ちに阿園を引き取らんと言う、村人も大概その儀を賛しぬ、佐太郎のみさきに寡婦に誓いしごとく、情なき里方の処置に対して寡婦の力となり、一身を投げて彼方此方に奔走し、ようやくにその議を翻し、寺院にも葬儀を頼み、大工にも棺槨《かんかく》を誂《あつら》え、みずから犂《すき》をとりて墓を掘り、父老、女房、勇蔵夫婦の朋友を呼びて野辺送りに立たしめたり、阿園が尼になるの一事は、里方は痛く怒りたれど、これも彼が周旋にて、忌中五十日の間ともかくもこの家にて喪を守ることを許されぬ、
 阿園が尼の願いいと切なりければ、佐太郎はなお陳述するところありしかど、里方は少しも動く様子なく、ただとにかくに此方より返事するまで待ちおるべしとのことなりければ、今は推して乞わんようもなかりき、
 この五十日間は阿園が心の還俗《げんぞく》するか、里方が尼の願いを許すか、両者その一に定まるべき期限なりし、その後里方は娘が心を回《めぐ》らさんともせず、また慰むべき人をもやらず、村人も訪い来ざれば、阿園はただ一人貧しく寂しく時々は涙にくれつつ、留守の日よりもひとしおあわれに日を送りただただ訪い来る佐太郎を待つのみなりき、げにこの家に快楽を享《う》けたりし佐太郎は、今はこの家に慰藉を報うべかりし、ある日彼は尼になるべき順序を問うべく五里はるかなる善導寺の尼院を訪いしが、落胆して帰り来たり、尼になるには父兄|親戚《しんせき》の保証を要することを阿園に告げ、次の日世に知られぬ尼院ありと伝うる彦山《ひこさん》に登り、二日の後に帰り来たり、夫ありて夫に死なれ、子ありて子に後《おく》れ、世間より捨てられたる者ならでは尼となられぬこと、されど道なき絶処虎狼の住むところには、昔信心堅固の尼の住みたる洞穴あり、このごろもまた一人の尼住みおり、ここは人間の至るところならねば、世の法律を逃るるとも後《あと》追わるべき憂いなき由を語り聞かせぬ、阿園はいかなる絶処を越えても尼になるべく思いたり、されどその洞穴の辺まで佐太郎に送られたしとも思いしなり、
 かくて一七日となり法事を営まねばならざりき、さらでも野菜なき夏の半ば、夫の留守中何事も懈《おこた》りがちなりけれ
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