にあて俯向《うつむ》いてただよよと泣くのみ、勇蔵もうち萎《しお》れて悄然《しょうぜん》として面を伏したり、身を投げてよりすがる阿園が頬《ほお》より落つる熱き涙は、ハラハラと夫の小手に当って甚深無量の名残りを語れり、
 昨日まで石のごとく堅固なりし勇蔵が一念、今はいかばかり脆《もろ》くなりしよ、彼はさきの決心のただ一時の出来ごころなりしを悟り、膝を交えて離別を語るのいたずらなりしを思い当りて悔ゆれども、事すでに晩《おく》れたれば、今はただ心強く別るるほかはなけれど、彼は痛くも力なくなり、あたかも生きながら別るるもののごとくうち沈み、「われにもしものことあらば、何事も佐太郎と相談して、心のままに再縁すべし、必ず短気に誤るまじきぞ」と、遺言ようの秘密を洩らしぬ、女房は声を揚げて泣きつつ答えり、「卿《おんみ》にもしものことあらば前夜よりしばしば誓いたる通り、妾《わらわ》は必ず尼になりて、卿の菩提《ぼだい》を弔わん、……さりながらかりそめにもかかる悲しきこと言わるるは、死にに往かるる心にや、さように心を痛めずとも、つつがのう帰りてよ、妾はいつまでも待ちおるべければ」と、勇蔵がなお何か言わんとせし折、磧の手巾は再び揚りて夫婦を呼びぬ、
 この留別場に女はただ阿園のみなりき、彼は今泣き顔を水に流し、給士|酌《しゃく》一人して立ち働き、一坐の雑《ざわ》めきに暫時悲しさを紛らしぬ、一坐の歓娯も彼が不運を予言するもののごとく何となく打ち湿り、互いに歌う鄙歌《ひなうた》もしばしば途切れ、たまたま唱うるものあれば和するものなく拍子抜けてついに黙りぬ、かくして時もやや移り、酒肉も尽きければ、イザと立ち上る佐太郎を力に、勇蔵も力なく立ち上り、一同も皆立ち上りて塘を出づれば、名残りの柳は一群の人を双方にふり分けぬ、二人は見返りの橋をわたり、隠しの森の端に沿い、行き行きて影も遠くなり、森のあなたに影消ゆれば、跡はただ大仏川のみ行方も知らず流れゆきぬ、

     中

 村落は今|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]秧《そうおう》すみてしばらくは農事|閑《ひま》なり、あたかも賊軍熊本を退き世間の物情とみに開けし折なりければ、村人もまた瓢箪《ひょうたん》を負い行廚《こうちゅう》を持ち、いずこより借り来たりけん二三の望遠鏡さえ携えつつ、戦争見物とて交る交る高きに登れり、戦争は遠くして見えねど、事によせたる物見遊山も、また年中暇なき山賤《やまがつ》の慰藉《いしゃ》なるべし、そのうちに阿園は一人残されて心細くもその日を送れり、二人が門を出でし日より、今は三月に及べどもいずれよりも便りなければ、旦暮その無事を祈るのみ、さりながらひたすら戦場の消息に耳を傾けたればにや、彼は村人がかつて聞かざる珍事を聞き得て、近処の老母らが音ずるごとに、新たなる物語もて彼らを驚かせしなり、
 げにや阿園は熊本城の一たび危かりしこと、熊本城の大将は谷少将と言える清正公以後の豪傑なること、賊軍の巨魁《きょかい》西郷隆盛は以前は陸軍大将にて天朝の御覚えめでたかりしものなること等より、田代《たしろ》よりゆきし台兵が、籠城《ろうじょう》中に戦死せしこと、三奈木《みなぎ》より募られたる百人夫長が、陣中の流行病にて没《な》くなりしこと、甘木《あまぎ》の商人が暗号を誤りて剣銃にて突かれしことなど、おおよそ近郷四五里の間の遠征戸籍は一々に暗記したり、最後に館原の藤吉が、輜重《しちょう》を運べる間流れ丸に中《あ》たりて即死したる報道を得しより、いと痛う力を落しぬ、これよりは隠気に鎖《と》じ籠《こも》り終日戸の外にも出でず、屋の煙さえいと絶え絶えにて、時々寒食断食することさえあり、さながら喪を守るもののごとく半月余もかくして過しぬ、
 ある日阿園はあまりの暑さに窓をあけて外面を眺めぬ、日はあたかも家の真上にありて畑の人は皆|昼餉《ひるげ》に急げり、と見れば向うの路より一個の旅人、大いなる布の包みを負いて此方に歩めり、ようやくに近くなれり、絶えず打ち守る此方の顔を旅人も目標として来るさまなりき、阿園は飛び立ちて独語せり、「佐太郎主にてはあらぬか、佐太郎主によくも似てあり、……否佐太郎主ならば、宿の主も一しょに帰らるべきものを、……さりながら余の人とは……いかにも佐太郎主のような……」
 げに旅人は佐太郎なり、彼は今ただ一人帰れるなり、彼はさきに身を立つべき資を得んと百日余り命を賭《か》け牛馬のごとく追い使われしが、今は危難と苦役の地獄を出て、懐《なつ》かしき家路に上り、はるばるも故郷の橋を渡れるなり、彼が喜悦に溢《あふ》るる心緒は、熊本籠城の兵卒が、九死一生の重囲を出でて初めて青天白日を見たるその嬉《うれ》しさにも優《まさ》るべく、いと重げなる黄金の包みのその懐《ふところ》に
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