しなり、彼は哀れにも尼の願いを起し、この久しき間忍んでその許可を待ちしなり、そのついに消息なきに及んで、彼は思いよらぬ方向に還俗し初めしなり、悲しいかな彼は今運命の与えぬところを己が手をもて取らんとしつつあるなり、彼はしばしば独語せり、「怨めしきはかの人、これまで一夜宿りもせず、げにただ一夜くらい宿りたればとて」と、
その日の夕佐太郎は再び徳利と菜籃《なかご》を提げて訪えり、待ちわびたる阿園は飛び立ちて迎え入れ、まだ日は暮れねど戸を締めたり、彼らは裏縁の風涼しきところに居並び、一個の膳に差し向い、いよいよ離別の杯を取れり、阿園は長々世話になりしことを謝し、里方の無慈悲を怨み、あかぬ別れを歎《なげ》き、身の薄命を悲しみ、佐太郎が親切を嘆じ、再縁再度の不幸を想いては佐太郎の妻となるべき女を羨《うらや》み、佐太郎の一方ならぬ恩誼《おんぎ》を思いては、この家を出てまた報ゆるの時なきをかこち、わけても佐太郎が妻なるべき女の好運を返す返すも羨みぬ、
杯の廻りに日暮れ、情話のうちに夜も更けゆき、外ゆく人全く絶え、行燈《あんどん》は油尽きて、影くらくなりて、ついに消えたり、
やがて家々鶏なくころ、佐太郎は目を覚ませり、彼はただ一個床にありき、首を挙げてソッと呼びたれど答うるものなかりしなり、さてはと身を起して闇を捜りたれど、阿園はいずこにもいず、ただ裏の戸明け放しありて、向いの空ほのぼのと明けゆく模様なりしなり、佐太郎は愕《がく》とせり、彼はそのままソッと戸を締め、夜明けぬ間に己が家に忍び走れり、
下
古門村の後には、村と同名の山脈連なり、峰は高きにあらずといえども、満山隠然として喬木《きょうぼく》茂り、麓《ふもと》には清泉|灑《そそ》げる、村の最奥の家一軒その趾《あと》に立ちて流れには唐碓《からうす》かけたる、これぞ佐太郎が住居なりき、彼は今朝未明に帰り来たり、夜明けたれど外にも出でず、残暑|焔《も》ゆるがごとき炉の傍に、終日|屹坐《きつざ》して思いに沈みぬ、その日の夕、にわかに戸を敲《たた》くものありき、彼は愕として飛び立ちしが気を静めておそるおそる戸を明けしに、その友の一人なる壮年なりき、突然とし彼は曰《い》えり、「佐太郎和主も来たり見よげに希代のものを捜し出せり、疾《と》く疾く疾く来よ」
佐太郎は思い当るところあれば青くなり、心には拝むようにして外に
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