んじんの狂言で。マアチョトおまえに遠ざかって。
女「サアそこはわかっているヨ。いよいよおまえがその気なら。わたいも悪婆の本性をあらわして。音羽屋のお伝という一幕を出しもしようが。おまえの気がきまらなくって。からを蹈んだ日には馬鹿を見るからネー。
男「うたぐりも人にこそよれだ。ヒーヒーたもれに人ヲつけ。
女「あぶないもんだ。そうはいうものの。むこうは面がいいのにおまえさんが面喰いだから。
男「馬鹿な。
女「ソンナラ大丈夫かえ。
男「当りまえよ。耳をかしな」と声をひそめて。両人がしばしささやきいたりけり。これ新橋ステイションの側《かたわら》なる。新橋楼《しんきょうろう》という待合の奥二階に。さしむかいの男女は。山中正にお貞なり。正は時計を出して見て。もう刻限だぜドレ。と立ち出でながら。
正「今度の湯治は大丈夫か。男の連れがあるのじゃアないか。
貞「お前じゃアあるまいし。何の因果で浮気なんぞをするものかネ。疑ぐるなら汽車に乗るところまでついてくるがいい。お清のほかにゃア牡猫《おねこ》だッていやアしない。
と戯《たわぶ》れながらステイションに近づけば。発車のしらせチリリンチリリン。

     第十回

 かかえの車夫にやあらん。玄関の馬車まわしの小砂利の上へ。しきりに水を撒《ま》いている。この体裁からみると。やすくふんでも奏任二三等ぐらいの住居とみゆるは。山中正が家にして。その実は篠原浜子の財産もて買い入れたる家なりけり。されば家事その他世の交際にいたるまでも。全権は浜子一人に帰して。女尊主義を主張し。自身はお手車で飛び走《ある》けども。旦那様は腰弁当にて毎朝毎朝出かけて行き。還《かえ》りには観音坂下まで。五銭の飛びのりがまず大快楽《おおたのしみ》なり。車夫は水をまきはてて夕方のけしきをうっかりと見ている目の前へ。ガラガラガラと走《は》せくる一|輛《りょう》の人力車。
女「若い衆《しゅ》さんここでいいよ」とおりて。この車夫にチョットあいさつをし。
女「あの篠原さんのお嬢さんのお宅はこちらで……。あのやどがあがっておりますそうでござりますが。今日はおりますか。
車夫「どっからおいでなすったか。わっちはしりません。勝手へいってお聞きなさい。
女「デハこの塀《へい》につきまして曲りますので。わかりましたありがとうござります。
 勝手にはおさんが香の物をきっていたりしが。御免なさいのこえを聞き。錠口をあけて。
下女「どちらから。
女「あの山中から出ましてござりますが。やどが長々お世話になりましてありがとうござります。今朝私しも帰りまして。宅も明けましてござりますから。すぐに帰りますようおっしゃって。
下女「オヤ山中は手前でござりますが。今日はどなたもおいでにはなりません。
女「デハ篠原の嬢様のおうちではござりませんか。
下女「イエこちらでございます。
女「お嬢様におめにかかればわかりますでござりましょう。あの山中のさだでござりますが。ちょっとお目通りを願いとうござりますと。おとり次ぎを願います。
 おさんはふしぎそうな顔をして。じろじろみながら奥へきたり。
下女「あの奥様。三十ばかりの待合茶屋のお神さんみたような人がまいりまして。ちょっとお目通りを願いたいと申します。
 浜子は窓にうでをかけて。女学ざっしを読みいたりしが。
浜子「どんな人。
下女「あの通し小紋の羽おりを着て。大そういきな人で。何かいろいろ申しましたがわかりませんでした。
浜「せんに殿様のおせわになったおさださんじゃアないか。
下「なんでも貞とかなんとか申しました。
浜「アーあの人にちがいないよ。ここへ通しておくれ。
下「お逢い遊ばすの」とふしぎそうに出て行きしが。やがて案内をして連れきたれば。
浜「オヤどうも久しぶりで。
貞「まことにご無さたを申し上げました。しばらく用事かたがた見物に。大坂の方へまいっておりましたので。
浜「さようでござりましたとネ。いいご保養を遊ばしましたネー。
貞「あのまたやどが久しゅうおせわになっておりましておそれ入りました。
浜「オヤどなたが。
貞「あのやどがしばらくおせわになっておりまして。私しがるすでさびしいと申して。宅をしめきりてあがっておるそうでござります。まことにありがとうござります。
浜「私しは今の旦那様は存じませんが。どなたでござりますか。
貞「オホホホごじょう談ばかりおっしゃります。あのご存じの山中正で。
浜「何ですとえ。オホホホホホおかしい。
貞「なぜでござります。
浜「なぜだッてオホホホホホ。
 お貞はわざとまじめになりて。
貞「なぜお笑いなさいます。
浜「なぜッて山中正は私しの何で。宅の主人ですものを。
 お貞はわざとびっくりせし風にて。
貞「何でございます。アノお邸の……。それはほんとうでございますか。
浜「アラいやなネー。ほんとうにおききなさるの。ツイこないだ婚礼をしまして……。
貞「何ですとえ。婚礼……。オヤオヤマアどうもあきれッちまいますネー。あたくしゃアちっともそんなことは夢にも……。
浜「オヤそうでしたか。その婚礼もネ。少し取込みがありまして。まだ公《おもてむき》にはいたしませんがネ。一夫一婦の大礼もあげ。私しの財産でこの家も買いましたし。召仕いの者も皆里から連れて参りましたのです。
 お貞はこの話をきかぬふりにて独語《ひとりごと》のように。
貞「マアどうも実にあきれちまうよ。だからいわないこッちゃアない。篠原の嬢さんのそぶりがおかしいから。だまかされちアいけないといッたんだものを。
浜「なんですって。私しがいつ人を詐譌《さぎ》するようなことをいたしました。
貞「さぎだか烏《からす》だかしりませんが。人の男をたらしこんで。イケシャアシャアとしたお嬢さんだ。
 はま子は呆《あき》れてお貞の顔を打ちまもれど。かなたはますます声高に。
貞「こんだ大坂から帰ってきたら。おもてむきせんの旦那のしってる人に。仲人《なこうど》をしてもらうつもりの咄しになっているのですよ。今さらお嬢さんにねとられましたからって。あっけらかんとしていられやアしません。ともかくも山中を出して下さい。当人にききゃアわかるこってす。サア早く旦那を出して下さい。
浜「そんなことをいったて今はここにいやアしません。お前さんがそう罵詈《ばり》なさると。さも私しのわるいようで。人の手前もありますし。みっともないから……。
貞「ナニいばるッて。ヘンいばるというのは。金があると思ッてしたい放題のことをする奴《やつ》のことです。留守のうちに亭主を盗んで。イケシャアシャアとしていられちゃア。面目《めんぼく》なくってくやしくってたまりゃアしない。早く旦那をだしてください。
浜「ぬすんだとはなんです。そう人をざんぼうなさッては。法律に触れましょう。仮にも華族の名義もありますから。
貞「オヤオヤはじめて伺いました。ひしゃくとかしゃくしとかのお姫さんは。人の男をどろぼうしても。御法にはふれないのですか。
浜「私しはどろぼうなんどということは存じません。とにかく山中は私しの殿様でござります……。早くだれか来てこの狂人《きちがい》をおもてへ出しておしまい。
貞「きちげえとはなんだ。はばかりながらしらきちょうめんの人間だ。こんなわからずやに咄しをしているとらちくちがあかない。巡査でもだれでもよんできておくんなさい。
とだんだんいい募れども。浜子はもと深窓に生いたちて。かかるかけ合いなどは夢にも聞きたることすらなければ。ただただ同じことのみいい。ついにはなき出でぬべきけしきなれば。執事の三太夫はとんで出できたり。
三太「どこのお神さんだか失礼な方だ。もうもうお姫様おなき遊ばしますな。なおつけあがりますから。エおかみさん。今は殿様も御不在だし。わけがわからんから。また御在宅の時においでなさるがよい。わが輩が委細の趣は申し上げるから。
 これにてようようお貞もしずまり。ここまでこぎつけておけば。あとはゆるゆるが上策なりと思いてか。三太夫になだめらるるを幸いに。じゃじゃばりながら帰り行く。
 はま子はあとになき声をふるわせながら。
浜「だれでもはやくおむかいにいッておくれ。ヨウ早く。
 かくてお貞はその夜きたれるのみか。朝に夕にきたりて悪口雑言をいいののしれど。浜子もおろかならねば。家来にもいいふくめて。ただるすとのみことわりていたりしが。その後より山中の様子もうってかわり。三日にあげずいずかたへか泊りきたり。ついにははま子のしらぬまに。うでわ。ゆびわその他はま子の身につきたるものも。いつのまにや持ち出でたれば。ようやくはま子も心づきて様子をさぐるに、全くお貞とはもとより夫婦同様になしいたれど。はま子の恋慕を幸いに婚礼なし。その財産を押領《おうりょう》なすべきたくみなれば。ついにはあの方にのみ多くありて。物見遊山なども相のりをなして。これみよかしとわが家の前を通行なすなど。浜子はくやしさやるかたなきものから。もとはおのれがなせしわざと。さとればさすが里方篠原家への聞えもはばかり。執事はじめ付きそえきたりしはしたまでに。口留めをなしおきたれど。隠れたるより顕《あら》わるるはなく、とく勤にも聞えければ、なお委《くわ》しく調べたるに。家屋敷までもいつのまにや。抵当とやらんに質入れし。大金を借り出《いだ》したるなどのことまでしれたれども。正ははやくも官を辞し。とくにお貞を伴ないて。いずかたへかちくてんしたり。浜子はなまじいに交際ひろがりしより。かかる評判も随《したが》いてたかければ。今さらほぞをかむのみにて。日々に涙にくれいたり。

     第十一回

 ちとおかけなさい。一ぷくあがっていらっしゃい。とよぶ女の声。こなたの角にはかけ合いに。万年働くかーめのっこ。きくはいのかめのこよりどったよりどった。とよぶ声いともかしましき。滝の川の秋の暮。人もようよう散れかかる紅葉《もみじ》のかげのかけ茶屋に。しばしやすらう二人の男。人品いやしからざるが。立ち上りながら。
男「篠原君すこし向うの方へブラブラしちゃアどうだ。君は尊大人のおなくなりなすってからは。めっきりどうも体がよわったようで。気が引き立たぬからいけない。そりゃア気のすまぬところもあろうが。どうもなったことならしかたがないサ。はま子さんも断然さとって。実に今は後悔のようだ。僕も昨日横浜に用があったからおたずね申したら。実に面目ないといって涙ぐんでの咄しも。実に真成のクリスチャンになりきってしまって。もとのような様子はすっかりなくなったヨ。
篠「あれは全く妹がわるい。当人も実に心得違いをしたと。しんに後悔をして。ああしておとなしくしていても。母に公然と逢いに来るわけにもゆかず。かんがえると実にふびんサ。
男「ソリャアもっともだけれど。君は養父母の義理を思っているからだが。君がそうふさいでいて。肺病にでもなってはなお不孝です。こんなことをいうとおかしいが。僕もずいぶん気の小さい方で。少しくだらんことが気になると。いてもたってもいられないようだったが。斎藤が無理やりに母に進めて。あの服部の浪子を妻《さい》にしてから。うちへかえってもかんがえるようなことはないのさ。何か読書でもしていて気の尽きる時には。琴を弾《ひ》かせたり茶を入れさせたり。少しは文学の相談もしたり。よほど気の晴れることがある。君なんぞは御養母《おっかさん》もああいう風だし。気のむすぼれるももっともです。干渉するようだが僕がせわをしようから。レディ篠原をこしらえ給えナ。
篠「実にあの浜子の一件の時分は激して。あれに優《まさ》る妻をとも思ったが。今ではただ気のどくだ不便《ふびん》だということばかり脳にあって。ちっともそんなことはかんがえん。アーなんだか咄しが理に落ちたじゃアないか。
男「ムーン。サア行こう。ヤアヤアなんだか書きちらかしてある。発句かネ。
 紅葉みにくる人もみな赤い顔。
 アハハハハ。くだらないことを。こういうところには和歌はまれだネ。
篠「まち給えヨ。あすこにおちているが和歌かしらん。おや鉛筆でもきれいにかいてあるヨ。
 いたずらに散りやはつらん紅葉《もみじ
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