るくすしのみか。独逸《どいつ》国より来朝せるベルツ[#「ベルツ」に傍線]博士にまで診察を請い。療治に愚かなかりしかど。いささか見直すところありとみしは。いわゆる返照《なかなおり》というものなりしが。勤が納涼よりかえりし宵《よ》よりにわかに容子変りきて。その翌日かえらぬ旅に赴《おもむ》きぬ。勤らのなげきはさらなり。よき人をうしないたりとて。惜しまぬ人はなかりしとぞ。されど勤はその跡を相続せしが。忌みもはてなば浜子と婚姻の式をあげさせんと。母をはじめ親戚《しんせき》朋友のかれこれといいすすむるに。勤は余義なくてありし次第を打ちあけて述べたるに。もとよりあらぬ濡衣《ぬれぎぬ》にもあらざれば。誰もしからんにはとの答えのみなれば。勤は養父が鞠育《きくいく》の恩義を忘れず。すでに華族の爵を継ぐ上は。世襲財産だけ譲り受くべきも。余の遺産は残らず浜子に渡し。心にかないたる中なればとて。さりぬべき媒《なかだち》をたのみて山中|正《まさし》に嫁《とつ》がせしめ。家に仕えし老僕|某《なにがし》を始め下女など数多《あまた》付き添わせ。近き渡りにしかるべき家屋ありしを求めて。これに住居させ。残るところなく世話をせしかば。人みなその処置のよろしきを得しをたたえしとなん。正は浜子をめとりてにわかに分限となりし心地はしたれど。入婿子《いりむこ》同じことにて。浜子は主人のごとくなれば。その才とその色とに不足あるにはあらねど。いままで食客にてありしを。かえりて気楽なりとおもうところもありぬべし。
女「ゆうべのおはなしで。すっぱりおまえさんの気もしれたから。今じゃアヤットおちついたがネ。婆アさんにあきがきて。かしをかえてしまったのかと。どんなにきをもんだかしりゃアしないヨ。
男「そうだろう。一体あすこの親指の口入れで官途にもありついたし。万端ひいきになるもんだから。お鬚の塵をはらっていて損のないとおもうとこから。せいいっぱい勤めていた内。あいつに英語を教えてやれということで……。マアなんだったのだが。これも御機嫌を損じてはと……。
女「イイヨたくさんだヨ。
男「そう咄しの腰をおるからいけない。それでとうとうこんだのやくそくも出来て。にわかに大尽になるようになるはなしだけれど。向《さき》はどうだかしらないが。
女「イイヨうるさい。
男「こっちには気にそまないだが。それ夕べも咄した通りのわけで。この一幕がかんじんの狂言で。マアチョトおまえに遠ざかって。
女「サアそこはわかっているヨ。いよいよおまえがその気なら。わたいも悪婆の本性をあらわして。音羽屋のお伝という一幕を出しもしようが。おまえの気がきまらなくって。からを蹈んだ日には馬鹿を見るからネー。
男「うたぐりも人にこそよれだ。ヒーヒーたもれに人ヲつけ。
女「あぶないもんだ。そうはいうものの。むこうは面がいいのにおまえさんが面喰いだから。
男「馬鹿な。
女「ソンナラ大丈夫かえ。
男「当りまえよ。耳をかしな」と声をひそめて。両人がしばしささやきいたりけり。これ新橋ステイションの側《かたわら》なる。新橋楼《しんきょうろう》という待合の奥二階に。さしむかいの男女は。山中正にお貞なり。正は時計を出して見て。もう刻限だぜドレ。と立ち出でながら。
正「今度の湯治は大丈夫か。男の連れがあるのじゃアないか。
貞「お前じゃアあるまいし。何の因果で浮気なんぞをするものかネ。疑ぐるなら汽車に乗るところまでついてくるがいい。お清のほかにゃア牡猫《おねこ》だッていやアしない。
と戯《たわぶ》れながらステイションに近づけば。発車のしらせチリリンチリリン。

     第十回

 かかえの車夫にやあらん。玄関の馬車まわしの小砂利の上へ。しきりに水を撒《ま》いている。この体裁からみると。やすくふんでも奏任二三等ぐらいの住居とみゆるは。山中正が家にして。その実は篠原浜子の財産もて買い入れたる家なりけり。されば家事その他世の交際にいたるまでも。全権は浜子一人に帰して。女尊主義を主張し。自身はお手車で飛び走《ある》けども。旦那様は腰弁当にて毎朝毎朝出かけて行き。還《かえ》りには観音坂下まで。五銭の飛びのりがまず大快楽《おおたのしみ》なり。車夫は水をまきはてて夕方のけしきをうっかりと見ている目の前へ。ガラガラガラと走《は》せくる一|輛《りょう》の人力車。
女「若い衆《しゅ》さんここでいいよ」とおりて。この車夫にチョットあいさつをし。
女「あの篠原さんのお嬢さんのお宅はこちらで……。あのやどがあがっておりますそうでござりますが。今日はおりますか。
車夫「どっからおいでなすったか。わっちはしりません。勝手へいってお聞きなさい。
女「デハこの塀《へい》につきまして曲りますので。わかりましたありがとうござります。
 勝手にはおさんが香の物をきっていたりしが。御免なさ
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