[#レ]席《なんにょせきをおなじゅうせず》という腐れ論をおっしゃるヨ。フーンと鼻で笑われたが。そのフーンが骨身に透《とお》ってぞっとした心持がして。それから急にいやになったのだが。親父には義理も恩もあるから。いやだっていやともいえないし。実に胸を痛めているのサ。
斎「それだっても世間での評判に。あの娘ならどんな官員のマダームといっておしだしても。交際ができるというくらい。そんな短気は……。
篠「斎藤君のいうことだが。僕はその官員が嫌いになった。官員になったとって。社会にどれほどの利益を与えることができると思いたまう。僕は話聖東《わしんとん》よりもフランクリン[#「フランクリン」に傍線]を景慕するヨ。フランクリン[#「フランクリン」に傍線]も官員でないとはいえないが。話聖東がボストンに義旗を翻がえし。三十余州を一致し。亜米利加《あめりか》に連邦を創立し。今は欧州各国と比肩して恥じざる国とまでにしたのは。えらいことはえらいけれども。ただ一ツの国がごうぎに強くなったというまでで。すこしも世界に利益を与えない。フランクリン[#「フランクリン」に傍線]は電気を発明して。それから電信機も出来。電気燈も出来。世界幾百の邦土。幾億の民生がみんなその利によることとは。またえらいことではないか。現今の世の中でも。ビスマーク[#「ビスマーク」に傍線]よりはレセップ[#「レセップ」に傍線]に指を屈します。ビスマーク[#「ビスマーク」に傍線]は仏蘭西《ふらんす》の鼻を折《くじ》いて。わが国の索漏生《ふろいせん》王をして日耳曼《ぜるまん》一統の帝とし。今では欧州で牛耳を執るというまでにて。よそほかの国にはなんの利益もない。レセップ[#「レセップ」に傍線]はそうではない。シュエスのカナールを掘り割りて。世界万国交通の便を開いたはどうでしょう。このうえはパナマの掘割まで出来ようとするは。実にえらいじゃアないか。北亜米利加合衆国が出来なかったとて。わが日本などは何の不自由も何もなかろう。電信機がなかったらソラどんなに不便だろう。日耳曼が帝国にならないとて。日本では屁でもないが。シュエスの掘割がなかったら。交通貿易にもどのくらいの不利を感じるかしれん。日本ばかりではない。どこでもそうにちがいない。だから僕は官員になっての功名は。たかがしれたことと悟って。なんでもフランクリン[#「フランクリン」に傍線]やレセップ[#「レセップ」に傍線]にならおうとおもう。
宮「ヒヤヒヤもっとも賛成だ。
篠「それだから交際上手の女房などは。すこしも望まんのサ。僕が好みの女房は。まんざら文盲でも困るが。婦人の美徳と称する従順の徳があって。少しく文字も読め斉家《せいか》の道に勉力してもらいたい。弾《は》ねた性質に世界の酸素を交ぜて。おてんばという化合物になったのなんざア好まない。いわば蹈舞の上手より毛糸あみの手内職をして。僕が活計を助けるというようなのがほしい。
斎宮「ナニ僕の活計だと。華族様などはとかくけちなことをいいたがるものだ。アハハハハ。
 一同笑いになりたるとき。
船頭「八百松屋《やおまつや》アー。
 桟橋《さんばし》に茶やの女の下駄の音カラコロカラコロ。
女「おはようござりました。

     第九回

 篠原勤は英国ケンブリジの学校に螢雪《けいせつ》の功を積み。ついに技芸士の称号を得。なお帰途《みちすがら》欧州各国に歴遊し。五カ年の星霜を経てようやく帰朝せしに。養父は思いがけなく華族に列せられ。家の面目この上もなき重ね重ねのめでたさに。何不足なき身ながらも。かねてより結婚の約束ある。浜子のそぶりに何となく心がかりのこと多く。かなたにもとかくにうしろめだき風情ありておのれをはばかるさまあるは。何ようのことわけのありてかと。心をつけし折も折。ゆくりなく耳に入りし馬丁《べっとう》車夫の噂咄《うわさばな》し。胸とどろくまで驚かれ。さてはと心づきたるに。なおさまざまのこと耳目に触れて疑いの種を生長《おいたた》しむるのみか。浜子は父の病の見とりもせで。とかくに外出《そとで》がちなるなどますます心にかなわざれば、いよいよ離縁して身を退くべしとその志を決しつつ。二三の親しき朋友には。その思うふしをそれとなく洩《も》らしたるほどなれど。さすがに幼少の時よりして、ともにそだちし筒井筒《つついづつ》。かたすぐるまでくらべこし。緑の黒髪花の顔。姿かたちもうるわしく。学問才知も人並みには立ちまさりたる浜子なれば。今さら棄《す》つるに忍びかねて。色好むとにはあらねども。拾わぬ先の珠としも思いきられず。また二つには幼少よりそだてられたる養父母の恩愛と義理にそむきがたく。独り心を苦しめしが。今は養父の大病にて。見とりにその身いとまなければ。それなりにして打ち過ぎしに。通方《みちかた》は世に国手とよばれた
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