、彼の帽子が翼《はね》をひろげましたので、彼の首が肩から抜け出して飛んで行くかと思いのほか、彼のからだ全体が軽々《かるがる》と空中に持上りました。パーシウスもそれにつづきました。彼等が百フィートも昇り切らないうちに、パーシウスは、退屈な地上を遠く下にして、鳥のようにすいすいと飛び廻ることが出来るというのは、実に愉快だなあと感じ始めました。
 もうすっかり夜も更けていました。パーシウスは目を上げて、円い、明るい、銀色の月を見ました。そして、あそこまで飛んで行って、一生をそこで暮すほどいいことはないような気がしました。それから彼はまた下を向いて、下界を眺めました。海や、湖水や、銀の糸を引いたような河や、雪をかぶった山のいただきや、広い野原や、黒々とかたまった森や、白い大理石で出来た町などが見えました。そして、その全体の景色の上に、月の光が眠るようにさしたところは、月の世界にも、又どんな星の世界にも、劣るまいと思われました。又彼は、他のいろいろなものの間に、彼のなつかしい母の住むセライファス島を見ました。時々、彼とクイックシルヴァとは、雲に近づきましたが、それは遠くから見ると、羊の毛のような銀で出来ているようでいながら、その中へ飛び込んで見ると、灰色の霧であって、からだが冷たく濡れるのでした。しかし、彼等の飛び方は大変速かったので、すぐに雲を抜けて、また月光の中に出るのでした。高く飛んでいた鷲が、見えないパーシウスに向って、まともにぶっ突かって来そうになったことなどもありました。何よりもすばらしかったのは、まるで空に大|篝火《かがりび》を焚いたように、俄に輝き出して、百マイルばかりに亙《わた》って月も光を失ったほどの、隕石落下の光景でした。
 二人連れでどんどん飛んで行くうちに、パーシウスは、彼のすぐ傍に衣摺《きぬずれ》の音が聞えるような気がしました。それがクイックシルヴァの見えているのとは反対の側から聞えるのでしたが、見えるのはやっぱりクイックシルヴァだけでした。
『誰の着物でしょう、僕のすぐ傍で、そよ風にさらさらと鳴りつづけているのは?』とパーシウスは尋ねました。
『ああ、わたしの姉の着物だよ!』とクイックシルヴァは答えました。『わたしがそう君に言った通り、彼女はわたし達と一しょに来ているんだ。われわれはわたしの姉の手を借りなくちゃ何も出来ないんだ。彼女がどんなにかしこいか、君にはちょっと分らないよ。彼女はその上、とてもいい眼をしているんだ! だって君、こうしていても、彼女には君が隠兜をかぶっていない時と同じように、君が見えるんだぜ。彼女が第一にゴーゴンを見つけるだろうってことは、今から言っといてもいいね。』
 空中をずんずん飛んでいた彼等は、この時にはもう、大きな海の見えるところまで来ていましたが、やがてその上にさしかかりました。彼等のはるか下の方では、波が海のまん中にどうどうと逆巻き、長い海岸線に沿うて筋を引いたように白い磯波を打上げ、岩の断崖に当っては泡と砕けて、下界では雷のような響を立てていました。尤もその響も、半分ねむりかかった赤坊の声のような、静かなつぶやきとなって、パーシウスの耳に届いて来るのでしたが。ちょうどその時、彼のすぐ傍の空中で声がしました。それは女の声らしく、音楽的ではあるが、世間でいう美声《いいこえ》とも少し違った、重々しい、おだやかな声でした。
『パーシウス、』とその声は言いました、『ゴーゴンがいますよ。』
『何処にです?』とパーシウスは叫びました。『僕には見えませんが。』
『あなたの下の島の海岸にいます、』とその声は答えました。『あなたの手から小石を落したら、ちょうど彼等のまん中に落ちるでしょう。』
『彼女が第一にゴーゴンを見つけるだろうとわたしは君に言ったろう、』[#「』」は底本では欠落]とクイックシルヴァはパーシウスに言いました。『そら、いるだろう!』
 彼の真下二三千フィートのところに、パーシウスは小さな島を見ました。岩で出来た岸をぐるっと取巻いて、海は白い泡となって砕けていましたが、ただ一方の岸だけは、雪のように真白《まっしろ》な砂浜になっていました。彼はその方に向っておりて行って、黒い岩の崖の下に何だかきらきらとかたまったような、重なり合ったようなものをよく見ると、これはしたり、あのおそろしいゴーゴン達がいるのでした! 彼等は雷のような海鳴《うみなり》の音で、いい気持になって、ぐっすり寝込んでいました。というのは、こんな獰猛《どうもう》な動物を眠りに誘うためには、他のものなら聾《つんぼ》になってしまうほどの騒音が必要だったからです。月の光は彼等の鋼鉄のようなうろこや、砂の上にだらりと垂れた金の翼の上にきらきらと光っていました。彼等が、見るもおそろしい真鍮の爪をにゅっと出して、波に打たれた岩のかけらをぎゅっとつかんでいたのは、誰か哀れな人間をずたずたに引裂いている夢でも見ていたのでしょう。彼等の頭の髪の代りに生えている蛇も、やはり眠っているようでした。尤も、時々、身をよじって、頭をもたげ、ねむいような、しゅっしゅっという音を立てて、叉《また》になった舌を出すのもいましたが、それもすぐ仲間の蛇の間にもぐってしまいました。
 ゴーゴン達は、とても大きな、金の翅《はね》をした甲虫というか、蜻蛉《とんぼ》というか、まあそういったもの――醜いと同時に美しくて――とにかく他のどんなものよりも、恐しい、大きな一種の昆虫に似ていました。ただそれが昆虫の千倍も百万倍も大きかっただけです。それでいながらまた、どことなく人間みたいなところもありました。仕合せなことは、彼等の寝ている姿勢によって、彼等の顔はパーシウスの方から見ると、すっかりかくれていました。というのは、彼がちょっとでもその顔を見たら、たちまち死んだ石の像になって、空中からどうっと墜《お》ちてしまったでしょうから。
『今だ、』とクイックシルヴァは、パーシウスの傍を飛び廻りながら小声で言いました、『今こそ君がゴーゴンの首を切る時だ! 早くしたまえ、もしゴーゴンのうちのどれかが目を覚ましでもしたら、もうおしまいだから!』
『どれに切ってかかればいいんでしょう?』とパーシウスは、剣を抜いて、も少し下の方へおりて行きながら言いました。『彼等三疋はみんな同じようじゃあありませんか。三疋とも蛇の髪をしています。三疋のうちどれがメヅサですか?』
 これらの竜みたいな怪物のうち、パーシウスが首を落すことが仮りにも出来るのは、メヅサだけだったということを知っておかなければなりません。他の二疋に至っては、パーシウスが、それまでに鍛えられたどんな銘刀を持って来て、何時間ぶっ続けに切りつけようが、少しも手応《てごたえ》はなかったでしょう。
『気をつけて、』と、前にもパーシウスに話しかけた静かな声が言いました。『ゴーゴン達のうちの一つが、寝ながらむくむく動いて、ちょうど寝がえりをしかけているでしょう。あれがメヅサです。彼女を見ないで! 見たらあなたは石になってしまいますよ! あなたのよく光った盾の鏡に映《うつ》ったメヅサの顔や姿を見るんです。』
 パーシウスはこの時初めて、クイックシルヴァがあんなに熱心に、盾を磨けと言ったわけが分りました。盾のおもてに映して、はじめて彼は安全に、ゴーゴンの顔の映像《かげ》を見ることが出来るのでした。なるほど映っています――あのおそろしい顔が――月光を一杯にうけて、その物凄さをすっかりあらわしながら、ぴかぴかした盾の中に映っています。頭の蛇は、わが身に有《も》った毒のために十分眠ることが出来ないのでしょうか、メヅサの額の上で、始終からだをよじりつづけています。とにかくそれは、今まで見たこともなく、想像もしたこともないような、この上もなく獰猛《どうもう》な、何ともいえないおそろしい顔でした。それでいて、一種不思議な、ぞうっとするような、野性的な美しさがその中にあるのでした。目を閉じて、ゴーゴンはまだぐっすりと眠っていましたが、何だかいやな夢でも見て、うなされてでもいるように、その顔附には悩ましそうなところが見えました。そして白い牙をばりばりと鳴らし、真鍮の爪は砂の中へ喰い込んでいました。
 頭の蛇もまたメヅサの夢がうすうす分るらしく、それがために一層眠れない様子でした。彼等は互にからみ合って、ごちゃごちゃのかたまりになり、はげしく身をよじって、目を閉じたまま、しゅっしゅっといいながら、百の鎌首をもたげました。
『さあ、さあ!』少しじれったくなって来たクイックシルヴァは、低い声で言いました。『メヅサに飛びかかれ!』
『でも落ち着いて、』と、パーシウスにつきまとっている真面目な、響のいい声が言いました。『下へおりて行く時、盾をよく見て、最初の一太刀《ひとたち》をしくじらないように気をつけなさい。』
 パーシウスは、盾に映ったメヅサの顔から目を離さないで、注意深く下の方へおりて行きました。近づけば近づくほど、蛇の生えた頭と鉄のような胴体とは、いよいよ物凄くなって来ました。とうとう、メヅサの上から手の届くあたりまで舞下ったと思った時、パーシウスは剣を振上げました。と同時に、メヅサの頭の蛇が恐しい勢で一つ残らず立上って、メヅサはくわっと目を見開きました。しかしもう遅かったのです。剣は業物《わざもの》、それがまた雷光《いなずま》のように打ちおろされたのだからたまりません。流石に兇悪なメヅサの首も、ぽろりと胴体からころがり落ちました!
『天晴《あっぱれ》の手並だ!』とクイックシルヴァは叫びました。『急いでその首を魔法の袋の中へ入れるんだ。』
 パーシウスが驚いたことには、彼が頸にかけていた、今まで財布ほどの大きさしかなかった、小さな、縫取りをした袋が、たちまちメヅサの首がはいるほどの大きさになりました。目にもとまらないほどの早さで、彼はまだ蛇がしきりにうごめいているメヅサの首をつかんで袋の中に押込みました。
『あなたの仕事はすみました、』と静かな声は言いました。『さあ逃げなさい。メヅサを殺された仇を討とうとして、他のゴーゴン達が命がけでかかって来るでしょうから。』
 実際、逃げる必要がありました。というのは、パーシウスがメヅサの首を落す時、いくら静かにやろうとしても、剣を打ちおろす音、蛇がしゅっしゅっという声、それからメヅサの首が海辺の砂の上にどさっ[#「どさっ」に傍点]と落ちる音などがしたので、他の二疋が目を覚ましたからです。彼等はちょっとの間、ねむそうに真鍮の指で目をこすりながら坐っていましたが、一方彼等の頭の蛇は、おどろきと、相手は何ものとも知らないながらも毒気を含んだ敵意とで、みんな棒立になりました。しかしその二疋のゴーゴン達が首のなくなった、うろこだらけのメヅサの死骸と、すっかり逆立《さかだ》って、半ば砂の上にひろげられた金の翼とを見た時に立てた叫びと悲鳴と来ては、本当に、聞いていて身の毛がよだつほどでした。それからまた蛇もです! 百もそろって一斉にしゅっしゅっというものですから、メヅサの頭の蛇もまた、魔法の袋の中からそれに応《こた》えるのでした。
 ゴーゴン達はすっかり目が覚めるとすぐに、がらがらというような音を立てて空中に舞上って、真鍮の爪を振上げ、物凄い牙をばりばりと鳴らし、その大きな翼をあまりはげしく羽《は》ばたきしたので、羽根の毛が幾つか抜けて、ひらひらと海岸の方へ落ちて行きました。そしておそらくそれらの羽根の毛は、今でもそこに落ちているでしょう。ゴーゴン達は高く舞上って、それはもう、誰でも石にしてしまおうというので、物凄くあたりを睨みまわしました。もしもパーシウスが彼等の顔をまともに見るとか、彼等の爪にかかるとかしていたら、彼の気の毒なお母さんは、二度とわが子に接吻する時は来なかったでしょう。しかし彼はゴーゴン達の方を見ないように、よく気をつけました。それに彼は隠兜をかぶっていたので、ゴーゴン達は彼をどっちへ追っかけていいか分らなかったのです。又彼は飛行靴《とびぐつ》を出来るだけ利用することを忘れないで、まっすぐに一マイ
前へ 次へ
全31ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三宅 幾三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング