ば、必ずこの巨人が遇ったのとちょうど同じような、ひどい目に遇うのです。
 可哀そうに! 彼は明らかに、長い間そこに立っていたのです。古い森が、彼の足のまわりにだんだん成長して、まただんだんと朽ちて行きました。どんぐりから芽を吹いた、六七百年もたった樫の木が、彼の足の指の間から無理に生えていました。
 折しもその巨人は、とても高いところにある彼の大きな眼から、下の方を見おろしました。そしてハーキュリーズをみとめて、ちょうど彼の顔から吹きのけられたばかりの雲の中から鳴り出す雷の音かと思われるような声で、吼え出しました。
『わしの足もとにいる奴は誰じゃ? そしてお前は、あの小さな椀に乗って、どこから来たのじゃ?』
『僕はハーキュリーズだ!』その勇士は、巨人の声と大方同じ位な、いや、全くそれに負けない位な大きな声で、どなり返しました。『そして僕は、ヘスペリディーズの庭を捜しているのだ!』
『ほう! ほう! ほう!』巨人はびっくりするほど大きな声で、吼えるように、笑い出しました。『それはまことに結構な冒険じゃのう!』
『結構でなくってどうする?』ハーキュリーズは、巨人の冗談に少しむっとして叫びました。『僕が百の頭をもった竜をこわがっているとでも思うのか!』
 こうして彼等が話をしている折しも、いくつかの黒雲が巨人の腰のまわりに集まって来て、かみなりといなずまとの大変な嵐となり、あまりやかましくて、ハーキュリーズには、相手の言葉が一ことも聞き取れませんでした。ただ巨人のどれ位あるとも分らないような足が、暗い嵐の中に、にゅっと立っているのが見えるだけです。そして、もうもうとした雲に包まれた彼の全身が、時々、ちらっちらっと目に映《うつ》るのでした。彼はその間も、ほとんどしゃべりつづけているようでした。しかし彼の大きな、深い、荒っぽい声は、雷がごろごろと鳴る音と一しょになって、それと同じように、山の向うへ響いて行ってしまいました。こうして、むやみやたらにしゃべって、その馬鹿な巨人は、計り知れないほどの息を無駄に費しました。というのは、彼の言ってることは、全く雷の音と同じように、一向わけがわからなかったからです。
 とうとう、嵐は来る時と同じように、突然晴れ上ってしまいました。そして、からりとした空や、うんざりしながらそれをさし上げている巨人や、それから気持のいい日の光が高い高い彼の上からさして、陰気な夕立雲を背景として彼の姿を明るく照らし出しているのが、また見えて来ました。彼の頭は夕立よりもはるか上の方にあったので、髪の毛一筋にも、雨のしずくはかかっていませんでした!
 巨人はハーキュリーズがまだ海岸に立っているのを見ると、彼にむかって、また怒鳴り出しました。
『わしはこの世で一番力の強い巨人アトラスじゃ! そして、わしは空を頭の上に乗せているのじゃ!』
『そうのようだね、』ハーキュリーズは答えました。『ところで、君は僕にヘスペリディーズの庭へ行く道を教えてくれないかね?』
『そこに何の用があるじゃ?』巨人は訊きました。
『僕は、いとこの王のために、金の林檎を三つ取りたいんだ、』ハーキュリーズは大声で言いました。
『ヘスペリディーズの庭へ行って、金の林檎をもげる者は、わしのほかに誰もない、』巨人は言いました。『この、空を持ち上げているという小仕事さえなければ、わしが海を五足《いつあし》か六足《むあし》で渡って行って、それをお前に取って来てやるんだがなあ。』
『それはどうも御親切に、』ハーキュリーズは答えました。『そして、君は空をその辺の山の上にちょっと載《の》っけておくというわけには行かないのかしら?』
『それほど高い山が一つもないんだ、』アトラスは、首を振りながら言いました。『しかし、もしもお前があの一番近い山の上に立てば、お前の頭はどうかこうかわしの頭と同じ高さになるだろう。お前はいくらか力のある男らしいな。わしがお前の使いをしてやる間、わしの荷物をお前の肩に乗せていてくれたらどうじゃ?』
 よく覚えていてほしいんですが、ハーキュリーズは大した力持でした。そして、空を支えるには、大変な筋力が要《い》りましたが、それでも、誰か人間のうちでそんな芸当が出来そうな者があるとすれば、彼こそその人でした。それにしても、あまりむずかしそうな仕事なので、彼は生れてから初めて、二の足を踏みました。
『空って大変重いかしら?』彼は尋ねました。
『さようさ、はじめのうちは、別にそんなでもないね、』巨人は肩をすぼめながら答えました。『しかし、千年も持っていると、多少重くなって来るね!』
『そして、君が金の林檎を取って来てくれるのに、どれくらい時間がかかるだろう?』勇士は尋ねました。
『ああ、それはちょっとの間で出来るんだ、』アトラスは叫びました。『わしは一足《ひとあし》が十マイルか十五マイルだ。だから君の肩が痛くなり出さないうちに、あの庭へ行って、また帰って来るよ。』
『それじゃ、まあ、』ハーキュリーズは答えました、『僕はあの、君のうしろの山に登って、君の荷物を持っててあげよう。』
 実際のところ、ハーキュリーズは親切な心の持主だったので、こうして一度散歩に出る機会をあたえてやれば、巨人に対して大変いいことをしてやることにもなると考えました。その上また、単に百の頭の有《あ》る竜を退治るというだけの平凡なことよりも、空を持上げたといって自慢することが出来れば、自分自身の名誉のためには一層たしになるだろうと思いました。そこで、それ以上何も言わないで、空はアトラスの肩から、ずるずるっと、ハーキュリーズの肩へ移されました。
 それが無事にすむと、巨人はまず第一に、のびをしました。その時の彼がどんなに大した見ものだったかは、君達も想像出来るでしょう。次に、彼は一方の足を、そのまわりに生えた森から、ゆっくりと上げました。それからまた、他の足を上げました。それから、自由になったうれしさに、突然、跳ねまわったり、飛び上ったり、踊ったりし始めました。空中どれくらい高く飛び上るものやら見当もつかない位で、また不器用にどんと落ちて来ると、大地がぶるぶるっと震えました。それから――ほう! ほう! ほう!――と笑い出しましたが、それが、あちこちの山々にこだまして、雷のように鳴りひびくので、まるで巨人にそれだけの兄弟があって、みんなで喜んでいるのかと思われるくらいでした。彼の嬉しさが少し静まった時、彼は海の中へ足を踏み入れました。最初の一足《ひとあし》で十マイル、それで脛《すね》の半分どころの深さでした。二足《ふたあし》目も十マイル、その時には、水がちょうど彼の膝の上まで来ました。それから三足《みあし》目で、もう十マイル、すると彼は大方腰の辺までつかりました。これが海の一番深いところでした。
 ハーキュリーズは、巨人がまだまだ向うへ進んで行くのをじっと見ていました。というのは、この大きな人間の恰好をしたものが、三十マイル以上も向うの方で、腰まで海の中へはいって、それでもまだ上半身が、まるで遠くの山のように高く、かすんで、青く、見えているのは、実にあきれるばかりだったからです。その大きな姿は、だんだんぼんやりして来て、おしまいには、すっかり見えなくなってしまいました。こうなると、ハーキュリーズは、もしもアトラスが海に溺れるとか、ヘスペリディーズの金の林檎をまもっている百の頭をした竜に咬まれて死ぬとかした場合には、どうしたものだろうと、心配になって来ました。もしも何かそうした不幸が起ったら、一体この空という荷物を、どうしておろすことが出来るでしょうか? それに、もうそろそろ、空の重みが、彼の頭と肩とに少々こたえて来たのでした。
『本当にあの気の毒な巨人は可哀そうなものだ、』とハーキュリーズは思いました。『十分間で僕がこんなにひどくくたびれるんだから、千年の間もこうやっていた彼は、どんなにくたびれたことか、思いやられる!』
 おう、可愛い小さな君達よ、君達には、われわれの頭の上に、あんなにやんわりと、軽そうに見えているあの青空がどんなに重いものか、見当もつかないでしょう! それにまた、吹荒《ふきすさ》ぶ風、冷《ひ》いやりとした、しめっぽい雲、焼けつくような太陽、といったようなものが、交代でハーキュリーズを苦しめるのだから、たまりません! 彼は、巨人がもう帰って来ないのではないかと心配になって来ました。彼はうらやましそうに、下界を眺めました。そして、こんな目まいがしそうな山の頂上に立って、力一杯に大空をさし上げたりしているよりも、山のふもとで羊飼でもしている方が、ずっと仕合せだということを思い知りました。というのは、勿論、君達にもすぐ分る通り、ハーキュリーズは彼の頭と肩との上に重みを背負っているばかりではなく、心に大変な責任を感じていたからです。だって、もしも彼がじっと立って、空を動かないようにしていないと、おそらくお日様がぐらつき出すでしょう! 或は又、夜になって、沢山のお星様がその座からずり出して、人々の頭の上へ、火の雨のように降って来るでしょう! そして、もしも、彼がその重みでよろめいたがために、空が裂けて、大きな割目《われめ》が端から端まで出来たりしたら、その勇士はどんなに面目ない気がするでしょう!
 それから、遠く海の向うの端に、巨人の大きな姿が、雲のように見えて来て、彼が何ともいえないほど嬉しく思うまでに、どれ位の時間がたったか、僕は知りません。とにかく、アトラスはもっと近づいてから、手を上げましたが、ハーキュリーズはその手に、一本の枝に垂れた、南瓜《かぼちゃ》ほどもある、三つの大きな金の林檎を見ました。
『よく帰って来てくれたね、』声が届くほどのところへ巨人が来た時、ハーキュリーズは叫びました。『で、金の林檎を取って来てくれたんだね?』
『そう、そう、』アトラスは答えました、『そして、なかなかいい林檎だよ。ほんとに、わしはあの木になっているうちで、一番立派なのを取って来たんだから。ああ! ヘスペリディーズの庭って、美しい所だ。そう、それから百の頭をした蛇は、誰でも一ぺん見とく値打はあるねえ。何といっても、お前は自分で林檎を取りに行った方がよかったぜ。』
『そんことはどうだっていいよ、』ハーキュリーズは答えました。『君は気持よく散歩して来たんだし、それに僕が行っても同じで、用は足りたんだから。お骨折《ほねおり》ねがって、ほんとうにありがとう。しかし、もう、僕は道も遠いし、かなり急いでもいるし、――それに、僕のいとこの王が金の林檎を待ちかねているしするから、――何とかもういっぺん、僕の肩から空を受取ってもらえまいか?』
『どうも、そいつは、』と、巨人は金のりんごを空中へ二十マイルかそこいら、ぽいとほうり上げてまた落ちて来るところを受けとめながら、言いました、――『そいつは、お前、少しお前の方が無理だと思うんだがね。わしの方がお前よりもずっと早く、お前のいとこの王様のところへ、金の林檎を持って行けはしないかね? 陛下がそんなにお待ちかねなんだから、わしは出来るだけ大股で行くことをお前に約束するよ。それにまた、わしはちょっと今のところ、空を背負込《しょいこ》もうなんて気はないね。』
 そこでハーキュリーズは、じれったくなって来て、大きく肩をすぼめました。もうそろそろ暗くなりかかっていたので、その場にいたら、お星様が二つ三つその座からころがり出すのが見えたでしょう。地上の人はみんなびっくりして上を向いて、次には空が落ちて来はしないかと思いました。
『おう、そんなことをしちゃいけない!』巨人アトラスは、大きな声で吼えるように笑って言いました。『わしはこの五百年間にだって、そんなに沢山の星を落っことしはしなかったよ。わしほど長い間そこに立っているうちには、お前も辛抱というものを覚えて来るようになるだろう!』
『なんだと!』ハーキュリーズはひどく腹を立てて叫びました、『君は僕にいつまでも、この重いものを背負《しょ》わしとくつもりか?』
『そのことについちゃ、いずれ日を改めて相談する
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