だつた。
 ある家の洋燈《ラムプ》の下に五六人車座になつて賽ころを振つてゐるのを見た。車やは其処で烟草を買つた。
「やい、誰だ。此処迄來て寄らねえつつうことがあるか。やい、面あ出しやあがれ。」
 と外に待つてゐる吾々を見て怒島つた男があつた。頬髯の凄い男だつた。
 大雪寺といふのまで三十丁もあつた。境内には大きい池と、それを取卷く櫻があつた。花見の時には此の池に舟を浮かべて遊ぶ。
「そん時はお女郎がわしらの車に乘つてくれるでごわす。」
 と車やはひどく光榮がつてゐた。池と櫻とは月光を浴びて私の記憶にあるが、どんな寺だつたか、いかなる由緒があるのか一切忘れてしまつた。醉拂ひの車やは、それからお女郎のゐる所へ案内して呉《くれ》ると云つたが、やうやく斷つた。宿に歸つて二階座敷に寢たが、夜具の惡臭はまだしもとして、忽ち全身に蚤が這ひ始めた。四疋五疋つかまへてつぶしてゐるうちに、手足腹胸首背中、全身はれあがつてしまつた。一睡も出來ないで曉の光を見た。
 朝の飯は臭くて咽喉を通らなかつた。吾々をあてこんで同じ宿に泊つた車やが、もう一人つれて來て驛迄乘せて行つた。
 吾々は上田《うへだ》へ寄つて、その日輕井澤へ行つた。停車場前の油屋といふ宿屋にとまつた。時々雲は去來したが、空は眞青に晴れてゐたので、その晩十時から登山の爲めに出立し、翌朝下山したら直ぐに汽車に乘つて、途中妙義山に登らうと日程を定めた。縁側に出て見ると、淺間は鼻の先にあつた。湯に入《はい》つて長々と寢そべつてゐると、不意に障子が暗くなつた。あけてみると、山の方はすつかり霧にかくれ、風は水のほとばしるやうに草を分けて吹いた。忽ち大粒の雨が縁側を打つて横ざまにしぶいて來た。
 翌日も雨は止まなかつた。隣室の客が、此の雨は東から來たから五六日は晴れまいと話してゐるのを聞いて、急に思ひ切つて歸る事にした。ふりかへつても振返つても、淺間は姿を見せなかつた。
 翌年、恰度同じ頃に、私は一人で東京を立つた。前の年の相棒も同行の約束だつたが、俄に都合が惡くなつて斷つて來た。しかし、今度は淺間山麓に一人の友達が待つてゐた。
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小諸《こもろ》なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
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 と島崎藤村先生のうたつた城址を訪ひ、又先生や三宅克己丸山晩霞などといふ人が教鞭を執つたといふ小諸義塾も見た。友達
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