を尽して並べても「真田《さなだ》三代記」や「甲越軍談」の絵本を幼い手ぶりで彩《いろど》っても、陰欝《いんうつ》な家の空気は遊びたい盛りの坊ちゃんを長く捕えてはいられない。私はまた雑草をわけ木立の中を犬のように潜《くぐ》って崖端へ出て見はるかす町々の賑わいにはかなく憧憬《あこが》れる子となった。
「なぜお屋敷の坊ちゃんは町っ子と遊んではいけないのだろう」
 こう自分に尋ねて見たがどうしてもわからなかった。後年、この時分の、解きがたい謎《なぞ》を抱《いだ》いて青空を流れる雲の行衛《ゆくえ》を見守った遣瀬《やるせ》ない心持が、水のように湧《わ》き出して私は物の哀れを知り初めるという少年のころに手飼いの金糸雀《かなりや》の籠《かご》の戸をあけて折からの秋の底までも藍《あい》を湛《たた》えた青空に二羽の小鳥を放してやったことがある。

 崖に射《さ》す日光は日に日に弱って油を焦がすようだった蝉の音も次第に消えて行くと夏もやがて暮れ初めて草土手を吹く風はいとど堪えがたく悲哀《かなしみ》を誘う。烈《はげ》しかっただけに逝《ゆ》く夏は肉体の疲れからもかえって身に沁《し》みて惜しまれる。木の葉も凋落《ちょうらく》する寂寥《せきりょう》の秋が迫るにつれて癒《いや》しがたき傷手《いたで》に冷え冷えと風の沁むように何ともわからないながらも、幼心に行きて帰らぬもののうら悲しさを私はしみじみと知ったように思われる。こうして秋を迎えた私ははかなくお鶴と別れなければならなかった。
 ある日私は崖下の子供たちの声に誘われて母の誡《いまし》めを破って柳屋の店先の縁台に母よりも懐かしかったお鶴の膝に抱かれた。
「なぜこのごろはちっとも来なかったの。私が嫌《いや》になったんだよ憎らしいねえ」
 と柔かい頬を寄せ、
「私もう坊ちゃんに嫌われてつまらないから芸者の子になってしまうんだ」
 と言ったお鶴の言葉はどんなに私を驚かしたろう。遠い下町の、華《はな》やかな淫《みだ》らな街に売られて行くのを出世のように思って面白そうに嬉しそうにお鶴の話すのを私はどんなに悲しく聞いたろう。しかしそれも今は忘れようとしても忘れることの出来ない懐かしい思い出となってしまった。
 お鶴はすでに、明日にも、買われて行くべき家に連れて行かれる身であった。そこは鉄道馬車に乗って三時間もかかって行く隅田《すみだ》川の辺《ほと》りで一町内すっかり芸者屋で、芸者の子になるとおいしい物が食べられて、奇麗な着物は着たいほうだい、踊りを踊ったり、三味線を弾《ひ》いたりして毎日賑やかに遊んでいられるのだとお鶴は言った。
「私もいい芸者になるから坊ちゃんも早く偉い人になって遊びに来ておくれ」
 お鶴は明日の日の幸福を確く信じて疑わない顔をして言った。平生《ふだん》よりも一層はしゃいで苦のない声でよく笑った。
「今度遊びに行っていいかい」
 と私が言ったのを、
「子供の癖に芸者が買えるかい」
 と囃《はや》し立てた子供連にまじってお鶴のはれた声も笑った。そしていつもよりも早く帰えると言い出して別れ際に、
「私を忘れちゃ厭《いや》だよ、きっと偉い人になって遊びに来ておくれ」
 と幾たびか頬擦りをしたあげくに野衾のように私の頬を強く強く吸った。「あばよ」と言って、蓮葉にカラコロと歩いて行く姿が瞭然《はっきり》と私に残った。
 悄然《しょうぜん》と黒門の内に帰った私は二度とお鶴に逢う時がなかった。忘れることの出来ないお鶴について私の追想はあまりにしばしば繰り返えされたので、もう幼かった当時の私の心持をそのままに記《しる》すことは出来ないであろう。私は長じた後の日に彩った記憶だと知りながら、お鶴に別れた夕暮の私を懐かしいものとして忘れない。
「お鶴は行ってしまうのだ」
 と思うと眼が霞《かす》んで何にも見えなくなって、今までにお鶴がささやいた断《き》れ断《ぎ》れの言葉や、まだ残っている頬擦りや接吻《くちづけ》の温《あたた》かさ柔かさもすべて涙の中に溶けて行って私に残るものは悲哀《かなしみ》ばかりかと思われる。堪《こら》えようとしても浮ぶ涙を紛らすために庭へ出て崖端に立った。「お鶴の家はどこだろう」傾く日ざしがわずかに残る、一様に黒い長屋造りの場末の町とてどうしてそれが見分けられよう。悲哀に満ちた胸を抱いてほしいままに町へも出られない掟と誡めとに縛られるお屋敷の子は明日にもお鶴が売られて行く遠い下町に限りも知らず憧《あこ》がれた。「子供には買えないという芸者になるお鶴と一日も早く大人になって遊びたい」
 見る見る落日の薄明《うすらあかり》も名残《なご》りなく消えて行けば、
「蛙《かえる》が鳴いたから帰えろ帰えろ」
 と子供の声も黄昏《たそが》れて水底《みなそこ》のように初秋の夕霧が流れ渡る町々にチラチラと灯《ともしび》[#
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