ゃんの仲よしのお鶴さんでしょう。坊ちゃんはお鶴さんでなくっちゃいけないんだねえ。私ともちっと仲よしにおなりな」
 娘は面白そうに笑った。
 夕食の後、家内の者は団扇を手に縁端《えんばな》で涼んでいるうち、こっそりと私はまだ明るい町へ抜け出した。早くも燈火《ともしび》のついた柳屋の店先にはもう二三人若者が集まっていた。子供たちは私を珍しがっていろいろと海辺の話を聞きたがったがそれにも飽きると餓鬼大将の金ちゃんを真先に清ちゃんまでも口を揃えて、
「お尻《しり》の用心御用心」
 とお互い同志で着物の裾《すそ》を捲《まく》り合ってキャッキャッと悪戯《わるふざ》けを始めたがしまいには止め度がなくなってお使いにやられる通りすがりの見も知らぬ子のお尻を捲ってピチャピチャと平手で叩《たた》いて泣かせる、若者は面白ずくに嗾《け》しかける。私は店先に腰かけて黙って見ていたが小さな女の子までも同じ憂《う》き目に逢ってワアッと泣いて行くのを可哀《かわい》そうに思った。
 間もなく町は灯《ひ》になって見る間《ま》にあわただしく日が沈めばどこからともなく暮れ初めて坂の上のほんのり片明りした空に星がチロリチロリと現われて煙草屋の柳に涼しい風の渡る夏の夜となる。
「お尻の用心御用心」
 と調子づいた子供の声はますます高くなってゆく。
「オイオイあすこへ来たのはお鶴ちゃんだろう」
 こう言った若者の一人は清ちゃんの姉さんが止めるのも聞かずに、面白がる仲間にやれやれと言われて子供たちにいいつけた。
「誰でもいいからお鶴ちゃんの着物を捲ったら氷水をおごるぜ」
 さすがに金ちゃんは姉のこととて承知しなかったが車屋の鉄公はゲラゲラ笑いながら電信柱の後に隠れる。私は息を殺してお鶴のために胸を波打たせた。夜目に際立って白い浴衣のすらりとした姿をチラチラと店灯《みせあか》りに浮き上らせてお鶴はいつもの通り蓮葉に日和下駄《ひよりげた》をカラコロと鳴らしてやって来る。やり過して地びたを這《は》って後へ廻った鉄公の手がお鶴の裾にかかったかと思うと紅が翻《ひるがえ》って高く捲れた着物から真白な脛《はぎ》が見えた。同時に振り返ったお鶴は鉄公の頭をピシャピシャと平手でひっぱたいてクルリと踵《きびす》をかえすと元来た方へカラコロとやがて横町の闇《やみ》に消えてしまった。気を呑《の》まれた若者は白けた顔を見合わせておかしくもなく笑った。私は強い味方を持てる気強さと滝夜叉のように凄《すご》いほど美しいわがお鶴をたまらなく嬉しく懐《なつ》かしく思ったのであったが待ち設けた人に逢われぬ本意なさにまだ崩《くず》れない集まりを抜けて帰った。
 暗闇の多い坂上の屋敷町は、私をして若い女や子供が一人で夜歩きするとどこからか出て来て生き血を吸うという野衾《のぶすま》の話を想い起させた。その話をして聞かせた乳母の里でも村一番の美しい娘が人に逢いたいとて闇夜に家を抜け出して鎮守の森で待っているうちに野衾に血を吸われて冷めたくなっていたそうだ。氷を踏むような自分の足音が冷え初めた夜の町に冴《さ》え渡るのを心細く聞くにつけ野衾が今にも出やしないかとビクビクしながら、一人で夜歩きをしたことをつくづく悔いたのであった。覆《おお》いかかった葉柳に蒼澄んだ瓦斯燈《ガスとう》がうすぼんやりと照しているわが家の黒門は、固《かた》くしまって扉に打った鉄鋲《てつびょう》が魔物のように睨《にら》んでいた。私は重い潜戸《くぐりど》をどうしてはいることが出来たのだったろう。明るい玄関の格子戸《こうしど》から家の内へ馳け込むと中の間《ま》から飛んで出て来た乳母はしっかりと私を抱き締めた。
「新様あなたはマアどこに今ごろまで遊んでいらっしゃったのです」
 あれほど言っておくのになぜ町へ出るのかと幾度か繰り返して言い聞かせた後、
「もう二度と町っ子なんかとお遊びになるんじゃありません乳母《ばあや》がお母様に叱られます」
 と私の涙を誘うように掻《か》き口説くので、いつも私が言うことをきかないと「もう乳母は里へ帰ってしまいます」と言うのが真実《ほんと》になりはしないかと思われて知らず知らずホロリとして来たが、
「新次や新次や」
 と奥で呼んでいらっしゃるお母様のお声の方に私は馳け出して行った。

 お屋敷の子と生まれた悲哀《かなしさ》はしみじみと刻まれた。
「卑しい町の子と遊ぶと、いつの間にか自分も卑しい者になってしまってお父様のような偉い人にはなれません。これからはお母様の言うことを聞いてお家でお遊びなさい。それでも町の子と遊びたいなら、町の子にしてしまいます」
 と言う母の誡《いまし》めを厳《おごそ》かに聞かされてから私はまた掟《おきて》の中に囚《とら》われていなければならなかった。しばらくは宅中《うちじゅう》に玩具箱をひっくり返して、数
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