ルビの「ともしび」は底本では「ともびし」]がともるとどこかで三味線の音が微《かす》かに聞え出した。ポツンポツンと絶え絶えに崖の上までも通う音色を私はどうしてもお鶴が弾くのだと思わないではいられなかった。そして何だかその絃《いと》に身も魂も誘われて行くようにいとせめて遣瀬ない思いが小さな胸に充分《いっぱい》になった。「お鶴は行ってしまうのだ」「一人ぼっちになってしまうのだ」とうら悲しさに迫り来る夜の闇の中に泣き濡《ぬ》れて立っていた。
 ふと私は木立を越した家の方で「新様新様」と呼ぶ女中の声に気がつくと始めて闇に取り巻かれうなだれて佇《たたず》む自分を見出して夜の恐怖に襲われた。息も出来ないで夢中に木立を抜けた私は縁側から座敷へ馳け上ると突然《いきなり》端近に坐っていた母の懐《ふところ》にひしと縋《すが》って声も惜しまずに泣いた。涙が尽きるまで泣いた。
 ああ思い出の懐かしさよ。大人になって、偉い人になって、遊びに行くと誓った私はお屋敷の子の悲哀《かなしみ》を抱いて掟《おきて》られ縛《いまし》められわずかに過ぎし日を顧みて慰むのみである。お鶴はどこにいるのか知らないが過ぎし日のはかなき美しき追想に私はお鶴に別れた夕暮、母の懐に縋って涙を流した心持をば、悲しくも懐かしくも嬉しき思い出として二十歳《はたち》の今日もしみじみと味わうことが出来るのである。



底本:「日本の文学 78 名作集(二)」中央公論社
   1970(昭和45)年8月5日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:小林繁雄
2006年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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