ひざ》に抱いて後から頬ずりしながら話の中心になっていた。私はもう汗みずくになって熊野神社の鳥居を廻って鬼ごっこをする金ちゃんに従って行こうとはしないで、よくはわからぬながらも縁台の話を聞いていた。もちろん話は近所の噂《うわさ》で符徴まじりのものだった。「お安くないね」「御馳走《ごちそう》さま」というような言葉を小耳に挾《はさ》んで帰って、乳母に叱られたこともあった。若い娘の軽い口から三吉座の評判もしばしば出た。お鶴は口癖のように、
「死んだと思ったお富たあ……お釈迦《しゃか》様でも気がつくめえ」
 とちょっと済ましてやる声色《こわいろ》は「ヨウヨウ梅ちゃんそっくり」という若者たちの囃す中で聞かされて私も時たま人のいない庭の中などでは小声ながらも同じ文句を繰り返した。尾上梅之助という若い役者が三吉座を覗く場末の町の娘っ子をしてどんなにか胸を躍らせたものであったろう。藤次郎の背に乗った私は、「色男」「女殺し」という若者のわめきにまじる「いいわねえ」「奇麗ねえ」と、感激に息も出来ない娘たちの吐息のような私語《ささやき》を聞き洩らさなかった。私もいつも奇麗な男になる梅之助が好きだったけれどあまりにお鶴がほめる時は微《かす》かに反感を懐《いだ》いた。
「平生《ふだん》着馴《きな》れた振袖《ふりそで》から、髷《まげ》も島田に由井ヶ浜、女に化けて美人局《つつもたせ》……。ねえ坊ちゃん。梅之助が一番でしょう」
 と言ってお鶴は例のように頬を付ける。私は人前の気恥かしさに、
「梅之助なんか厭だい」
 と言うのだった。実際連中は、お鶴がいつも私を抱いているので面白ずくによく戯弄《からか》った。
「お鶴さんは坊ちゃんに惚《ほ》れてるよ」
 私は何かしら真赤になってお鶴の膝を抜け出ようとするとお鶴はわざと力を入れて抱き締める。
「そうですねえ。私の旦那様だもの。皆焼いてるんだよ」
「嘘《うそ》だい嘘だい」
 足をばたばた[#「ばたばた」に傍点]やりながら擦《す》り付ける頬を打とうとする、その手を取ってお鶴はチュッと音をさせて唇《くちびる》に吸う。
「アアア、私は坊ちゃんに嫌われてしまった」
 さも落胆《がっかり》したように言うのであった。
 やがて今日も坂上にのみ残って薄明《うすらあかり》も坂下から次第に暮れ初めると誰からともなく口々に、
「夕焼け小焼け、明日天気になあれ」
 と子供らは歌いながらあっちこっちの横町や露路に遊び疲れた足を物の匂《にお》いの漂う家路へと夕餉《ゆうげ》のために散って行く。
「お土産《みやげ》三つで気が済んだ」
 と背中をどやして逃げ出す素早い奴《やつ》を追いかけてお鶴も「明日またおいで」と言って、別れ際に今日の終りの頬擦りをして横町へ曲って行く。
 私はいつも父母の前にキチン[#「キチン」に傍点]と坐って、食膳《しょくぜん》に着くのにさえ掟《おきて》のある、堅苦しい家に帰るのが何だか心細く、遠ざかり行く子供の声をはかない別れのように聞きながら一人で坂を上って黒門をはいった。夕暮は遠い空の雲にさえ取止めもない想いを走らせてしっとり[#「しっとり」に傍点]と心もうちしめりわけもなく涙ぐまれる悲しい癖を幼い時から私は持っていた。
 玄関をはいると古びた家の匂いがプン[#「プン」に傍点]と鼻を衝《つ》く。だだっ広い家の真中に掛かる燈火《ともしび》の光の薄らぐ隅々《すみずみ》には壁虫が死に絶えるような低い声で啼く。家内《やうち》を歩く足音が水底《みなそこ》のように冷めたく心の中へも響いて聞える。世間では最も楽しい時と聞く晩餐時《ばんさんどき》さえ厳《いか》めしい父に習って行儀よく笑い声を聞くこともなく終了《おしまい》になってしまう音楽のない家の侘《わび》しさはまた私の心であった。お祖母様や乳母や誰彼に聞かされたお化の話はすべてわが家にあった出来事ではないかと夜はいつでも微かな物音にさえ愕《おび》えやすかった。自然と私は朝を待った。町っ子の気儘な生活を羨《うらや》んだ。

 カラリ[#「カラリ」に傍点]と晴れた青空の下に物《もの》皆《みな》が動いている町へ出ると蘇生《よみがえ》ったように胸が躍って全身の血が勢いよく廻る。早くも街《まち》には夏が漲《みなぎ》って白く輝く夏帽子が坂の上、下へと汗を拭《ふ》き拭き消えて行く。ことさら暑い日中を択《えら》んで菅笠《すげがさ》を被《かぶ》った金魚屋が「目高、金魚」と焼けつくような人の耳に、涼しい水音を偲《しの》ばせる売り声を競《きそ》う後からだらり[#「だらり」に傍点]と白く乾いた舌を垂らして犬がさも肉体を持て余したようについて行く。夏が来た夏が来た。その夏の熊野神社の祭礼も忘れられない思い出の一|頁《ページ》を占めねばならぬ。
 町内の表通りの家の軒にはどこも揃いの提灯《ちょうちん》を出したが
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