「今日は皆遊びに来ないのかい」
「エエ、町内のお花見で皆で向島に行くの。だから坊ちゃんはまた明日遊びにおいで」
 娘は諭《さと》すように私の顔を覗き込んだ。
 間もなく「今日《こんち》は」と仇《あだ》っぽい声を先にして横町から町内の人たちだろう、若い衆や娘がまじって金ちゃんも鉄公も千吉も今日《きょう》は泥《どろ》の付かない着物を着て出て来た。三味線を担《かつ》いだ男もいた。
「アラ、今ちょうど出かけようと思っていたとこなの。どうもわざわざ誘っていただいて済みません」
 清ちゃんの姉さんはいそいそと立ち上った。私は人々に顔を見られるのが気まり悪くてもじもじしていた。
「どうも扮装《おつくり》に手間がとれまして困ります。サア出かけようじゃあがあせんか」
 と赤い手拭《てぬぐい》を四角に畳んで禿頭に載せたじじいが剽軽《ひょうきん》な声を出したので皆一度に吹き出した。
「厭な小父《おじ》さんねえ」
 と柳屋の娘は袂《たもと》を振り上げてちょっと睨《にら》んだ。
 どやどやと歩き出す人々にまじった娘は「明日おいで」と言って私を振り向いた。
「坊ちゃんは行かないのかい、一緒においでよ」
 と金ちゃんが叫んだけれども誰も何とも言ってくれる人はなかった。私は埃を上げてさんざめかして行く後姿を淋しく見送っていると、人々の一番後に残って、柳屋の娘と何かささやき合っていた、さっき「今日は」と真先に立って来た娘がしげしげと私を振りかえって見ていたが小戻《こもど》りして不意に私を抱き上げて何も言わないで頬ずりした。驚いて見上げる私を蓮葉《はすっぱ》に眼で笑ってそのまま清ちゃんの姉さんと手を引き合って人々の後を追って行った。それが金ちゃんの姉のお鶴《つる》だということは後で知ったが紫と白の派手な手綱染《たづなぞ》めの着物の裾《すそ》を端折《はしお》ッて紅《くれない》の長襦袢《ながじゅばん》がすらりとした長い脛《はぎ》に絡《から》んでいた。銀杏返《いちょうがえ》しに大きな桜の花簪は清ちゃんの姉さんとお揃いで襟には色染めの桜の手拭を結んでいた姿は深く眼に残った。私は一人|悄然《しょうぜん》と町内のお花見の連中が春の町を練って行く後姿が、町角に消えるまで立ち尽したがそれも見えなくなるとにわかに取り残された悲しさに胸が迫って来て思わず涙が浮んで来た。
 多数者の中で人々とともに喜びともに狂うことも出来ない淋しい孤独の生活を送る私の一生はお屋敷の子と生まれた事実から切り離すことの出来ない運命であったのだ。小さな坊ちゃんの姿は一人花見連とは反対に坂を登って、やがて恨めしい黒門の中に吸われた。

 珍しい玩具《おもちゃ》も五日十日とたつうちには投げ出されたまま顧みられなくなるように、最初のうちこそ「坊ちゃん坊ちゃん」と囃《はや》し立てた子供も、やがて煙草屋の店先の柳の葉も延びきったころには全く私に飽きてしまって坊ちゃんはもはや大将としての尊敬は失われて金ちゃんの手下の一人に過ぎなかった。
「何んでえ弱虫」
 こう言って肱《ひじ》を張って突っかかって来る鼻垂らしに逆らうだけの力も味方もなかった。けれどもやはり毎日のように遊び仲間を求めて町へ出たのは小さい妹のために家中の愛を奪われ、乳母をさえも奪われたがために家を嫌ったよりもお鶴といった魚屋の娘に逢《あ》いたいためであった。
 子供の眼には自分より年上の人、ことに女の年齢《とし》は全く測ることが出来ない。お鶴も柳屋の娘も私にはただ娘であったとばかりでその年ごろを明確《はっきり》と言うことは思いも及ばないことに属している。お鶴は煙草屋の柳の陰の縁台の女主人公であった。色の蒼白い背丈の割合に顔の小さい女で私は今、そのすらりとした後姿を見せて蓮葉に日和下駄《ひよりげた》を鳴らして行くお鶴と、物を言わない時でも底深く漂う水のような涼しい眼を持ったお鶴とをことさら瞭然《はっきり》と想い出すことが出来る。
 きらきらと暑い初夏の日がだらだら[#「だらだら」に傍点]坂の上から真直《まっす》ぐに流れた往来は下駄の歯がよく冴《さ》えて響く。日に幾たびとなく撤水車《みずまきぐるま》が町角から現われては、商家の軒下までも濡《ぬ》らして行くが、見る間にまた乾ききって白埃《しらほこり》になってしまう。酒屋の軒には燕《つばめ》の子が嘴《くちばし》を揃えて巣に啼いた。氷屋が砂漠《さばく》の緑地のようにわずかに涼しく眺められる。一日一日と道行く人の着物が白くなって行くと柳屋の縁台はいよいよ賑《にぎ》やかになった。派手な浴衣《ゆかた》のお鶴も、街《ちまた》に影の落ちるころきっと横町から姿を見せるのであった。「今日《こんち》は」と遠くから声をかけて若い衆の中でも構わずに割り込んで腰を下した。
「坊ちゃん。ここにいらっしゃい」
 とお鶴はいつも私をその膝《
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