を潜っていた子供の顔は人馴れぬ獣のように疑い深い眼つきで一様に私を仰ぎ見た。
 その翌日。もう長屋の子と友達になったような気がして、いつもよりも勇んで私は崖に立って待っていた。やがてがやがや[#「がやがや」に傍点]列を作ってやって来た子供たちも私の姿を見て怪しまなかった。
「坊ちゃん、お遊びな」
 と軽く節をつけて昨日私を見つけた子が馴れ馴れしく呼んだ。私は何と答えていいのかわからなかった。「町っ子と遊んではいけません」と言った乳母の言葉を想い起して何か大きな悪いことをしてしまったように心を痛めた。それでも、
「坊ちゃんおいでよ」
 と気軽に呼ぶ子供に誘われて、つい[#「つい」に傍点]一言二言は口返えしをするようになったが悪戯子《いたずらっこ》も、さすがに高い崖を攀《よ》じ登って来ることは出来ないので大きな声で呼び交《かわ》すよりしかたがなかった。
 こんな日が続いたある日、崖上の私を初めて発見した魚屋の金ちゃんは表門から町へ出て来いという知恵を私に与えた。しばらくは不安心に思い迷ったが遊びたい一心から産婆や看護婦にまじって乳母も女中たちも産所に足を運んでいる最中を私の小さな姿は黒門を忍び出たのである。かつて一度も人手を離れて家の外を歩いたことのなかった私は、烈しい車馬の往来が危《あぶ》なっかしくて、せっかく出た門の柱に噛《かじ》り付いて不可思議な世間の活動を臆病《おくびょう》な眼で見ているのであった。
 麗《うら》らかな春の昼は、勢いよく坂を馳《か》け下って行く俥《くるま》の輪があげる軽塵《けいじん》にも知られた。目まぐるしい坂下の町をしばらく眺《なが》めていると天から地から満ち溢《あふ》れた日光の中を影法師のような一隊が横町から現われて坂を上って来た。
「坊ちゃんお遊びな」
 と遠くから声を揃えて迎いに来た町っ子を近々と見た時私は思わず門内に馳け込んでしまった。汚《きた》ならしい着物の、埃《ほこり》まみれの顔の、眼ばかり光る鼻垂らしはてんでに棒切れを持っていた。
「坊ちゃん、おいでな皆《みんな》で遊ぶからよ」
 中では一番|年増《としかさ》の金ちゃんは尻切《しりき》れ草履《ぞうり》を引きずって門柱《もんばしら》に手を掛けながら扉《とびら》の陰にかくれて恐々覗いている私を誘った。坊ちゃんの小さい姿は町っ子の群れに取り巻かれて坂を下った。

 間もなく私は兄になった。その当座の混雑は、私をして自由に町っ子となる機会を与えた。あるいは邪魔者のいない方がかかる折には結句いいと思って家の者は知っても黙っていたのかも知れない。
 比較的に気の弱いお屋敷の子は荒々しい町っ子に混って負《ひけ》を取らないで遊ぶことは出来なかったが彼らは物珍しがって私をばちやほや[#「ちやほや」に傍点]する。私はまた何をしても敵《かな》いそうもない喧嘩《けんか》早い子供たちを恐いとは思いつつも窮屈な陰気な家にいるよりも誰に咎《とが》められることもなく気儘《きまま》に土の上を馳け廻るのが面白くて、遊びに疲れた別れ際《ぎわ》に「明日《あした》もきっと[#「きっと」に傍点]おいで」と言われるままに日ごとにその群れに加わった。
 私たちの遊び場となったのは熊野神社の境内と柳屋という煙草屋の店先とであった。柳屋の店にはいつでも若い娘が坐っていた。何という名だったか忘れてしまったけれども色白の肥った優しい女だった。私は柳屋の娘というと黄縞《きじま》に黒襟《くろえり》で赤い帯を年が年中していたように印象されている。弟の清《せい》ちゃんは私が一番の仲よしで町ッ子の群れのうちでは小ざっぱりした服装《なり》をしていた。そして私と清ちゃんが年も背丈も誰よりも小さかった。柳屋の姉弟《きょうだい》にはお母《っか》さんがなく病身のお父《とっ》さんが、いつでも奥で咳《せき》をしていた。店先には夏と限らずに縁台が出してあったもので、私たちばかりか近所の店の息子や小僧が面白ずくの煙草をふかしながら騒いでいた。
「あいつらは清ちゃんの姉さんを張りに来てやがるんだよ」
 と言う金ちゃんの言葉の意味はわからぬながらも私は娘のために心を配《わずら》わした。けれどもはかない私の思い出の中心となるのはこの柳屋の娘ではなかった。

 都もやがて高台の花は風もないのに散り尽すころであった。ある日私はいつもの通り黒門を出て坂を小走りに馳け下った。その日に限って私より先には誰も出て来ていないので、私はしばらく待つつもりで柳屋の縁台に腰かけた。店番の人も見えなかったがほどなく清ちゃんが奥から馳け出して来る。続いて清ちゃんの姉さんも出て来て、
「オヤ、坊ちゃん一人ッきり」
 と言いながら私の傍に坐った。派手な着物を着て桜の花簪《はなかんざし》をさしていた。私の頬《ほお》にすれずれの顔には白粉《おしろい》が濃かった。
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