由に遊び廻る気にはなれないので縁近いところでつまらなくすくんでいた。けれども次第に馴《な》れて来るとまだ見ぬ庭の木立の奥が何となく心を引くので、恐々《こわごわ》ながらも幾年か箒目《ほうきめ》も入らずに朽敗した落葉を踏んでは、未知の国土を探究する冒険家のように、不安と好奇心で日に日に少しずつ繁《しげ》った枝を潜《くぐ》り潜り奥深く進み入るようになった。手入れをしない古庭は植物の朽ちた匂《にお》いが充《み》ちていた。数知れぬ羽虫は到《いた》るところに影のように飛んでいた。森閑として木下闇《このしたやみ》に枯葉を踏む自分の足音が幾度か耳を脅かした。蜘蛛《くも》の巣に顔を包まれては土蜘蛛の精を思い出して逃げかえった。しかしこうして踏み馴れた道を知らず知らずに造って私はついにわが家の庭の奥底を究《きわ》めたのであった。暗緑のしめっぽい木立を抜けるとカラリ[#「カラリ」に傍点]と晴れた日を充分《いっぱい》に受けて、そこはまばらに結った竹垣《たけがき》もいつか倒れてはいたが垣の外は打ち立てたような崖《がけ》で、眼の下には坂下の町の屋根が遠くまで昼の光の中に連なっている。その果てに品川の海が真蒼《まっさお》に輝いていた。今まで思いもかけなかった眼新しい、広い景色を自分一人の力で見出した嬉しさに私は雨さえ降らなければ毎日一度は必ず崖の上に小さい姿を現わすようになった。そして馴れるに従って日一日と何かしら珍しい物を発見した。熊野神社の大鳥居も見えた。三吉座《みよしざ》という小芝居の白壁に幾筋かの贔負幟《ひいきのぼり》が風に吹かれているのを、一様に黒い屋根の間に見出した時はことに嬉しかった。芝居好きの車夫の藤次郎《とうじろう》が父の役所の休日《やすみ》には私の守《も》りをしながら、
「乳母《ばあや》には秘密《ないしょ》ですぜ」
 と言っては肩車に乗せてその三吉座の立見に連れて行く。父母とともに行く歌舞伎座《かぶきざ》や新富座の緋毛氈《ひもうせん》の美しい棧敷《さじき》とは打って変って薄暗い鉄格子《てつごうし》の中から人の頭を越して覗《のぞ》いたケレン[#「ケレン」に傍点]だくさんの小芝居の舞台は子供の目にはかえって不思議に面白かった。ことに大向うと言わず土間も棧敷も一斉《いっせい》に贔負贔負の名を呼び立てて、もしか敵役《かたきやく》でも出ようものなら熱誠を籠《こ》めた怒罵《どば》の声が場内に充満《いっぱい》になる不秩序な賑《にぎ》やかさが心も躍《おど》るように思わせたのに違いない。私は藤次郎の言うままに乳母には隠れてたびたび連れて行ってもらったものだった。静寂な木立を後にして崖の上に立っていると芝居の内部の鳴物の音《ね》が瞭然《はっきり》と耳に響くように思われてあの坂下の賑わいの中に飛んで行きたいほど一人ぼっちの自分がうら淋しく思われた。

 それは確かに早春のことであった。日ごとに一人で訪ずれる崖には一夜のうちに著しく延びて緑を増す雑草の中に見る限りいたいた[#「いたいた」に傍点]草の花が咲いていた。その草の中にスクスク[#「スクスク」に傍点]と抜け出た虎杖《すかんぽ》を取るために崖下に打ち続く裏長屋の子供らが、嶮《けわ》しい崖の草の中をがさがさ[#「がさがさ」に傍点]あさっていた。小汚《こぎた》ない服装《みなり》をした鼻垂《はなた》らしではあったが犬のように軽快な身のこなしで、群れを作ってほしいままに遊び廻っているのが遊び相手のない私にはどんなに懐かしくも羨ましく思われたろう。足の下を覗くように崖端《がけはた》へ出て、自分が一人ぼっちで立っていることを子供らに知ってもらいたいと思ったがこちらから声をかけるほどの勇気もなかった。全く違った国を見るように一挙一動の掛け放れた彼らと、自分も同じように振舞いたいと思って手の届くところに生《は》えている虎杖《すかんぽ》を力|充分《いっぱい》に抜いて、子供たちのするように青い柔かい茎を噛《か》んでも見た。しくしく[#「しくしく」に傍点]と冷めたい酸《す》っぱい草の汁《しる》が虫歯の虚孔《うろ》に沁み入った。
 こうしたはかない子供心の遣瀬《やるせ》なさを感じながら日ごと同じ場所に立つお屋敷の子の白いエプロンを掛けた小さい姿を、やがて長屋の子らが崖下から認めたまでには、どうにかして、自分の存在を彼らに知らせようとする瓦《かわら》を積んでは崩《くず》すような取り止めもない謀略《はかりごと》が幼い胸中に幾度か徒事《あだ》に廻《めぐ》らされたのであったがとうとう何の手段《てだて》をも自分からすることなくある日崖下の子の一人が私を見つけてくれたが偶然上を見た子が意外な場所に佇む私を見るとさもびっくりしたような顔をして仲間の者にひそひそ[#「ひそひそ」に傍点]とささやく気配だった。かさかさ[#「かさかさ」に傍点]草の中
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