六怪選の勇ましくも物恐ろしい妖怪変化《ようかいへんげ》の絵や、三枚続きの武者絵に、乳母《うば》や女中に手を曳《ひ》かれた坊ちゃんの足は幾度もその前で動かなくなった。なかにも忘れられないのは古い錦絵《にしきえ》で、誰の筆か滝夜叉姫《たきやしゃひめ》の一枚絵。私が誕生日の祝い物に何が欲《ほ》しいと聞かれて、あれと答えたので散歩がてらに父に連れられて行った時「これは売物ではございません」とむずかしい顔の亭主《ていしゅ》が言ってから亭主を憎いと思うよりも一層姫の美しい姿絵が懐かしくなった。その他そこらには呉服屋、陶器《せともの》屋、葉茶屋、なぞがあったようだが私はそれらについて懐かしい何の思い出もない。坂下もまた絵双紙屋の側の熊野《くまの》神社、それと向い合った柳の木に軒燈の隠れた小さな煙草《たばこ》屋のほかはやはり記憶から消えてしまったけれどもその小さな煙草屋の玻璃棚が並べられて、わずかに板敷を残した店先に、私の幼《いとけな》かった姿が瞭然《はっきり》と佇《たたず》むのである。

 私の生まれた黒門の内は、家も庭もじめじめ[#「じめじめ」に傍点]と暗かった。さる旗本の古屋敷で、往来から見ても塀の上に蒼黒《あおぐろ》い樹木の茂りが家を隠していた。かなり広い庭も、大木が造る影にすっかり苔蒸《こけむ》して日中も夜のようだった。それでもさすがに春は植込みの花の木が思いがけない庭の隅々《すみずみ》にも咲いたけれど、やがて五月雨《さみだれ》のころにでもなろうものなら絶え間なく降る雨はしとしと[#「しとしと」に傍点]苔に沁みて一日や二日からり[#「からり」に傍点]と晴れても乾《かわ》くことではなく、だだっ広い家の踏めばぶよぶよ[#「ぶよぶよ」に傍点]と海のように思われる室々《へやへや》の畳の上に蛞蝓《なめくじ》の落ちて匍《は》うようなことも多かった。物心つくころから私はこの陰気な家を嫌《きら》った。そして時たま乳母の背に負われて黒門を出る機会《おり》があると坂下のカラカラ[#「カラカラ」に傍点]に乾ききった往来で、独楽廻しやメンコ[#「メンコ」に傍点]をする町の子を見て、自分も乳母の手を離れて、あんなに多勢《おおぜい》の友達と一緒に遊びたいと思う心を強くするのみであった。乳母は、
「町っ子とお遊びになってはいけません」
 と痩《や》せた蒼白い顔をことさら真面目《まじめ》にして誡《いまし
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