色が、世の中の推移に殘されてゆく人々の身の上をつつんで、一層靜寂を増してゐるのである。
其處に久保田君獨特の藝術境があると共に、此の傾向は屡々作品を平面的なものにしてしまふ憾《うらみ》がある。然るに「末枯」の一篇は、此の缺點を脱却して、描寫もすべて立體的に、現實性を確然と把持して、渾然とした傑作を成した。ほんとのところ、自分は近頃「末枯」程の作品を見た事がなかつた。
「世の中が惡くなつた」とかこちながら、浮世の一隅に、氣の利いた口はききながら、心寂しがつてゐる人々の世の中が「戀の日」一卷の中に沁々《しみ/″\》と味はれる。
甚だ散漫な自分の感想は、何時《いつ》迄たつても盡きさうも無い。「末枯」のうまみを細かく味はつてゐるときりが無い。ここいらでひとつ此頃流行の一手を學んで、大ざつぱにかたづけてしまへば、「末枯」の作者久保田万太郎君は、現代稀に見る完成した藝術家で、此の完成したといふ點に於て僅かに肩を並べ得る人は、徳田秋聲、正宗白鳥二氏の外には無い。仲間ぼめで危く文壇に地歩を占めて居る人間の多い現在、自分などが聲を張上げるのは誤解を招くおそれがあるが、藝術の作品の僞物とほん物の區別の
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